承認欲求、嫌い

承認欲求という言葉が嫌いだ。なんだそれは。認められたい、理解されたい、受け入れられたい。なるほど、それは動機ではある。ではどのようにして人は認められている、または受け入れられていると理解できるのだろうか。あるいは認められているとはどのような状態のことなのだろうか。つまり成立条件を解決できていない言葉で、万能ではない。すべてを承認欲求で語られる文章をみると気が悪くなる。

 

では恋人を例に挙げよう。「私はこんなに好きなのに、相手は本当に私を好きなのだろうか」と悩むことがあろう。これはたんに相手が好いてくれているかではない。相手が自分を好きであることを理解することである。例えば毎日電話をすることが愛情表現であり、もしくは必要なときだけ連絡を取ることが信頼の証である。毎回食事を奢ることを大切にする人もいれば、それを対等ではないと考える人もいる。つまり、相手が思ってくれていることを信じるのはその関係性ごとに違うのだが、なにかしらの行動を実践を通して感じるのは同じということだ。また、認められている、愛されているという状態には、それ自体で自明の基準が存在するわけではない。二人のあいだで反復され、共有され、納得される実践があって初めて、私たちは恋人である、私は愛されているという理解が成立するのである。

 

ここで一般化しよう。私はあなたの恋人であるというのは、それだけでは成立しない。その語りが恋人という関係として理解されるためには、あなたによる反復行動による裏付けが必要なのだ。つまり自己についての語りは、それを支持する社会的実践によって正当化される。関係性であれば、反復行動によりその名乗りを共同体で共有して受け入れられる。こうした自己の語りを支える実践を立証実践と私はよぼうと思う。立証実践とは、自己や関係についての語りを社会的に正当化する実践である。

 

さらに抽象化しよう。まず、人物理解や関係性は、主体の内面だけでは社会的に成立しない。私は優しい人間である、と、語ることは自由だ。しかし、その語りだけではその人が優しい人だと人物理解は成立しない。たんなる自己申告ではなく、共同体がその語りを妥当だと認めければならない。それを与えるのが立証実践である。この立証実践は点数や勝ち負けといった事実と、反復される行為、共有された経験、慣習、共同体内部の解釈など、その人物理解を支えるあらゆる実践を含む。そして共同体は立証実践を共有することで人物理解を安定化させる。

 

はじめに戻ろう。承認欲求という概念は、認められたい、という内面だけを語る。しかし社会的存在である以上、人が問題にしているのは内面ではなく、その自己理解が他者との実践によって成立するかどうかである。私たちが求めるのは承認ではない。自己の語りを成立させる立証実践なのである。

あるいはVRChatで

私はこれまで、自分に適合した家族や趣味の仲間といった居場所となり得る共同体を探し、そこへ半ば身を預けながら生きていくことが人生なのだと思っていた。そのため、自ら共同体を探したり、ときには作ったりもしてきた。もちろん快適な場はいくつか存在する。しかし、そこへ自身の余生を投資できるかと言われれば疑わしい。とりわけ、Twitter(現X)やVRChatを利用していると、持続的な共同体感覚は希薄である。明確な共同体を感じるのは、せいぜいDiscord程度だろう。ではなぜTwitterやVRChatを使い続けるのか。それは、共同体そのものではなく、つながっていると感じられる共同体感、(これをここでは共同性とよぶことにする)これこそが重要なのではないかと思えてきたからである。

 

 

共同体はこれまで、人々に意味・安全・承認・規範などを与え、それを維持してきた歴史がある。しかし、その共同体が解体され、村落共同体から都市社会へ、核家族化・非婚化へと移行していくなかで、人々は趣味の仲間やコミュニティなどによって共同体の機能を補完してきた。ただし、SNS空間へ拡張したとき、その単位は共同体ではなく個人へと変化される。共同体が担っていた承認やケアの機能を、個人間関係のみで代替しようとすると、その負荷は特定の関係へ集中する。その結果として、重い恋人やメンヘラと呼ばれるような過剰な依存関係が生じ得る。

 

 

しかし、TwitterなどのSNSを用いていても、共同性を感じることができる。有名な例が「バルス」の同時ツイートである。『天空の城ラピュタ』の放送時、主人公が「バルス」と発言する瞬間に合わせ、多くのユーザーが一斉に「バルス」と投稿した。このような共通経験こそが共同性である。

 

 

SNS以前には、宗教儀礼や祭礼、地域共同体などがこの役割を担っていた。そこには儀礼があり、集会があり、交流がある。これらは共通経験を生み出す装置として機能していた。あるいはSNSがある時代かもしれないが震災の経験も同様である。損失や不安といった感情を共有することで、人々は同じ経験をしているという感覚を獲得する。流動化した社会においては、こうした共通経験が共同性を担保する。

 

 

共同性は必ずしも善意によって成立するわけではない。ミームの共有、炎上への参加、共通敵の設定、いじめなどによっても、人々は同じ場にいるという感覚を獲得する。まとまりきらない界隈のなかで、似た感覚をもつ者同士がつながりを感じるのである。ここではデュルケームの集合的沸騰論が参照できる。すなわち、同時的な感情共有によって、瞬間的な共同性が成立するのである。

 

 

なお、ここで重要なのは、この共同性が道徳的・合理的な善悪とは必ずしも一致しない点である。例えば、ある人物Aが失敗をしたとする。その失敗に対して多数の人々が同時的に批判を行えば、その感情共有によって瞬間的共同性が形成される。しかし、その失敗が本来は許容されるべきものであったり、別の共同体では問題視されない可能性もある。「郷に入っては郷に従え」ということわざは存在するが、現代においては、その郷そのものが曖昧かつ流動的であるため、単純に適用することは難しい。

 

 

さて、共同性は共通経験や同時的感情によって形成されると述べた。これを比較的純粋な形で行っているのが、例えば飲み会ではないだろうか。ここでは個人ではなく、場に参加する複数人の相互作用へ視点を移したい。そこで行われているのは、貨幣によらない価値交換である。これはモースの『贈与論』とも重なる。人々は、近況報告や愚痴、相槌、一緒に酒を飲むといった行為を通じて、つながっているという感覚を確認している。こうした非物質的な互酬性が、人間関係を形成しているのである。

 

 

これをTwitterへ応用すると、相槌はリプライやいいね、ブックマークなどとして表現される。つまり、単なる会話やその場にいるという行為が、記録され可視化される形へ変化する。モースの『贈与論』における互酬性は、本来、時間的に遅延し、曖昧で、非等価なものであった。しかしSNSでは互酬性が可視化・記録化されるため、非対称な関係が認識されやすい。その結果、同程度の反応を返さなければならないという圧力が生じる。例えば、誕生日おめでとうのリプライに返信しなければならない、と感じるのである。また、共同性を獲得しようとするならば、人目につきやすい投稿を行う必要も生じる。

 

 

このように、SNSでは所属や関係性が固定化されにくく、接続と離脱が繰り返される、いわば液状化した関係性が広がっている。そのなかでは、持続的共同体というよりも、瞬間的共同性の反復によって、ゆるやかなつながりが維持される。端的に言えば、界隈のニュースやミームを消費し続けることで、人々はこの界隈に属していると感じることができ、それを共有することで、共同体を維持しているのである。

 

 

しかし、ここで問題となるのは、この共同性がきわめて短期的かつ高流動的である点である。持続的共同体には、構成員に対する責任や役割、あるいは関係修復の契機が存在した。たとえ対立が生じても、簡単には離脱できないため、一定の調整や交渉が必要となる。しかし、SNS的共同性においては、接続と離脱のコストが極めて低い。そのため、共同性は維持されやすい一方で、関係に対する責任は弱くなりやすい。

 

 

例えば炎上はその典型である。人々は共通の怒りを共有することで強い共同性を獲得する。しかし、その共同性は問題解決そのものを目的としているとは限らない。むしろ、同じ感情を共有しているという感覚自体が目的化する場合がある。結果として、対象への攻撃が継続され、時には排除そのものが共同性維持装置として機能する。

 

 

これはナショナリズムや宗教共同体などにおいて古くから見られた構造とも連続している。共同体はしばしばわれわれと彼らを区別することで内部の結束を強化してきた。しかし現代SNSでは、その形成と解体が高速化されている。つまり、敵の設定、感情共有、共同性形成、解体というサイクルが短時間で反復されるのである。

 

 

さらに、瞬間的共同性は、参加していない者を強く疎外する傾向を持つ。同じミームを知らない者、同じ怒りを共有しない者、同じ文脈を理解できない者は、空気が読めない者として排除されうる。ここでは明確な規範が言語化されないまま、その場の感情が規範として作用する。そのため、外部からは基準が見えにくく、また内部の人間であっても、いつ共同性から排除されるかわからない不安定さを抱えることになる。

 

 

共同体なき共同性は不安定である。責任は弱く、規範は流動化し、感情は加速する。人々はつながっているはずなのに、同時に切断への不安を抱え続ける。そのため、共同性は維持されるよりも、反復され続けなければならない。タイムラインを更新し続けるように、人は共同性を摂取し続ける。

 

 

私は余生を投資できる共同体を探していた。しかし、探していたものは最初から存在しなかったのかもしれない。あるのは、消え続ける共同性だけである。そして、その一瞬の接続を繰り返し確認しながら生きていくほかないのだろう。

同性愛をいまだに「ホモ」と呼ぶのは疎すぎないか

 

・同性愛をいまだに「ホモ」と呼ぶのは疎すぎないか

 

ホモという言葉は"homosexual"が由来である。つまり異性愛(heterosexual)とは違うということを強調するために使用される。多くは侮蔑を含む。対して、ゲイとは(あるいはLGBTQとは)近年において当事者がどのような当事者か自らを表現する表現である1,2)。したがって、(ゲイという言葉があるにもかかわらず)ホモという単語を使う行為は差別的秩序を反復していることではないだろうか。

 

 

・恋愛と結婚は地続きなのか

 

とある漫画で同性愛は非生産的だというセリフをみたことがある。それは結婚あるいは生殖の話だとおもったのだが、恋愛と結婚は切っても切り離せない。

日本では高度経済成長以前は見合い婚が主流であったのに対し、それ以降から恋愛結婚が主流になった歴史がある。もともと目的によって、共同体主義的なもの、家族主義的なもの、個人主義的なものに分けれれていた結婚を、愛と生殖と結婚とをひとつの枠組みにまとめて制度化してしまったのだ。かつ、永田はウルリッヒ・ベックの「リスクの個人化」をもとにこう述べている3)

結婚についての社会的な規範(「何歳になったら結婚しろ」とか「セックスするなら結婚が前提だ」といったような常識のようなものです)が共有されなくなった今日、結婚は個人の選択となりました。それは自由が拡大したという側面もあるのですが、同時に選択の結果を個人が引き受けなくてはけないという事態を引き起こしました。これはつまり、結婚によって生じる不測の事態への「対策」を個人が強いられるということを指しています。

 

 

・親密さはカテゴリーに先行するか

 

「定期的に会って、頻繁に連絡して、セックスして、浮気はダメで」といった親密な関係性があったとしよう(『生き抜くための恋愛相談』4)を参考)。その相手は恋人なのだろうか。つまり仲良い関係が先なのか、恋人というカテゴリーが先なのか。結論はどちらもあり得るということになるだろう。ただカテゴリー先行で関係性を後から築く場合を「当たって砕けろ」な告白と表現することができるのではないか。一応、参考図書では前者の方が成功しやすいと言っている。

カテゴリー(恋人)というのをいざ当てはめてみたら「じゃあ恋人だったら○○するよね」といった今までになかった関係を了承するかもしれない。これを自然な深化ととらえるのか規範ととらえるのかはわからないが、カテゴライズすることによって変化があるだろうと私は考える。

 

 

・生物学的な指向があるのではないか

 

生まれたときから異性相手に(同性相手に)興奮するように設計された身体である、というのはどうだろうか。双子研究においては性的指向において、遺伝的影響があるが同時に環境要因も寄与しているというデータがある5)

なお、興奮という生理現象も後天的(環境的)影響がある。吊り橋効果というのは知っているだろう。つまりは、交感神経などの高まりと目の前の光景をまぜこぜにして認知してしまうのだ(誤帰属理論)。吊り橋効果は交感神経系について述べているが、同じ自律神経系で副交感神経系つまりはリラックスや安心感を感じているときと目の前の状況をまぜこぜにして認知してしまうことも同じくあるのではないだろうか?

 

 

・恋愛は親密さだけが特徴なのか

 

タンバーグの「愛の三角理論」なるものがある。愛は①親密さだけではなく②情熱や③決断/コミットメントの3つから成り立つものだという。

いままでの流れで、親密な同性の関係であれば「親友」でいいじゃないか、という反論があるだろう。しかし、たとえばその関係性に労力を投資していたらどうだろう。時間をかけてお金を賭けて苦労をしていたのならば、ただの親友ではないのではないか。あるいは相手に近づきたいと思えたり一つになりたいと思えたりする何か情熱があったらまた別だろう。

『恋愛社会学』の中で高橋は以下のように整理した6)

恋愛と友情の違いは情熱の有無にあり、恋愛と結婚の違いは、それぞれの愛を構成する情ネルが「短期的な情熱(距離を糧にする情熱)」か、それとも「長期的な情熱(充実感を糧にする情熱)」かの違いである

 

 

・一人の相手と恋をして結婚し子どもを産み育てるのが人生の理想ではないか

 

ロマンティック・ラブ・イデオロギーという、近代恋愛の正当化理論である。先に述べた愛と生殖と結婚の三位一体が理想であるという規範である。西洋ではキリスト教以降ロミオとジュリエットなどと共に述べられる。日本では高度経済成長以降に普及した比較的新しい規範である。

 

 

・ではなぜその規範が「やっぱり合ってる」って思う人が多いのか

 

規範を批判し脱構造化させて自由になってみたと考えてほしい。(これは先に述べた「リスクの個人化」も作用すると思うのだが)自由な恋愛や性愛が可能になったとして、いったい何を目印に行動しその結果(とくにデメリットを)受け入れていけばいいのだろうか。そう考えると、もちろん自由にはなったが「今までの規範のままいくのが安定だよね」という空気になる。いわゆるベタメタでいうと、ベタ → ネタ → メタだったのが一周回ってベタになったというわけだろう。

 

 

 


1)杉浦 郁子:「レズビアン」という自己:語られる差異とポリティクスをめぐって 好井 裕明・山田 富秋 (編) 実践のフィールドワーク ,せりか書房,2002.

2)宮尻琴実ほか:「ホモ」をめぐる闘争:LGBT 活動に連帯しない当事者のカテゴリー使用,認知科学:31 ,2024.

3)永田夏来:生涯未婚時代.イースト・プレス,2017.

4)桃山商事:生き抜くための恋愛相談.イースト・プレス2017.

5)Oginni OA, et al:Genetic and Environmental Influences on Sexual Orientation: Moderation by Childhood Gender Nonconformity and Early-Life Adversity.Arch Sex Behav:53,2024.

6)高橋幸,永田夏来ほか:恋愛社会学.ナカニシヤ出版,2024.

 

慣習と逸脱

 

規範というものを3つにわけて考えよう。これらは同時に存在しながら互いに相反することもある。

  • 公式規範
  • 慣行規範
  • 道徳的規範

 

公式規範とは明文化されたルールである。たとえば利用規約ガイドライン、国でいえば法である。これは原則として提示され、すべてを厳密に適用すればかなりの人が違反者になる。車が通っていないからといって、信号無視すらできないのだ。ルールの管理者は違反を把握しつつも、選択的・消極的にしか介入しない。

 

慣行規範とは暗黙の了解である。人が共有してきたマナーであろう。これは相互を維持するための沈黙である。「見えているが見ない」「知っているが言わない」という態度をとることで場の混沌さは抑えられる。例えば、電車に乗っているときに他者がいるにもかかわらず無視するしぐさをとることがこれにあたる。また、反対のように見える化粧をしないというのもまた慣行規範である。明文化されていないというのは黙認ともいえる。

 

道徳的規範とは個人の倫理である。特徴として、感情的であること、自己正当化をともなうこと、他者への介入を正当化しやすいことが挙げられる。

 

さて、ここで問題がある。慣行規範には公式規範に反するものもある(例えば必要悪)。これを逸脱慣行と呼ぼう。そして、道徳的規範をもった者が公式規範の名のもとにその慣行を糾弾する。こういった場面について考えたいと思う。

 

 

 

ゴフマンのいうところの「場を壊さないための協調的無視」というのが逸脱慣行を維持している。つまりは、第三者の沈黙である。逸脱慣行があっても存在しないふりをするのである。管理者は積極的に介入せず、参加者は指摘しない、外部者は深入りしないのだ。ここで重要なのはこの沈黙が意図的であるということだ。逸脱であることはわかっていつつ慣行であるため黙認する、ということを合意している。集団の意図である。

 

逸脱慣行がなぜ黙認されているかについては、さまざまだが、もっとも考えられるのが単なる迷惑行為ではなく社会的機能を果たしているからであろう。管理者からみると人口を、文化を、経済を支えているからであろう。一般からすると、デュルケームのいうところ、社会を乱す存在ではなく社会が自らを定義しなおすための契機である。つまり、逸脱があるからこそその場がどのような場であるかが明確になるのだ。公の立場でも慣行の立場でも相互の利点があったのだ。

 

しかし、その恩恵を受けていない外部の者にとっては逸脱慣行とはすなわち悪である。公に許されているわけではないため証拠がそろえば「見ないふり」ができないわけだ。くわえて、現代ではみながスマートフォンというカメラを持ち歩いており、PCであってもあらゆるアプリケーションは記録可能である。すなわち相互監視社会である。そのため「見ないふり」ができにくい環境にあるといえる。

 

ただし、逸脱慣行というのは公式規範からの逸脱であって、無垢な被害者ではないことだけは念頭に置いておこう。

 

 

 

さて、逸脱慣行は外部の者にとって悪であった。慣行を知っている多くの者は沈黙を行うだろう。ゴフマンの述べた通りである。しかし、ある者にとっては格好の餌食である。悪事がありそれを正義の名をもって糾弾できる正当性があるからである。すなわち「裁く」ことが容易い。規範の暴力である。

 

この行為は正しいのだろうか。少なくとも逸脱は(公としては)正しくない行為である。一方で、彼らの行いはどうなのか。人の営みという観点で言えば正当化は難しい。曖昧さによって保たれていた均衡を明確化によって破壊したわけだからだ。

 

もっともわれわれが考えなければならないことは、逸脱慣行を公式化することではないと考える。この状況では外部の悪意が問題なだけである。したがって、クローズドなコミュニティを運営していけば、しばらくは問題ないだろう。一方で閉じた関係は流動性がなく非刺激的で社会的な作用が少ない。こういった問題はまた考えなければならない。

 

 

 

最後に

われわれは無垢な被害者ではない。慣行が開かれた場合、同様の慣行も死を迎える場合がある。

慣行は閉じた文化である。閉じた関係性の構築を第一にすべき。

超道徳的(「子どもや女性にも安心」というのは非論理的である)は相手にしない。相手の道徳は公式規範を根拠にしているが多くはブレた軸である。相手にしてことを大きくすることは、開かれた場に慣行を持ちだすことである。

日本語のい・わ・か・ん

 

無意識に間違って使っている日本語はたくさんあります。

今回は、そんな日本語を学びなおしてみましょう。

 

接続詞?
なので

一般的に「なので」を接続詞として「だから」などと同様に用いるのは誤用とすることが多いです。では一体なぜ「なので」が広まっているかを考察してみると、文法的なニュアンスにヒントがあったようです。

①だから「から」/なので「ので」

「から」には主観的ニュアンスが、「ので」には客観的ニュアンスがあるようです。

②だから「だ」/なので「な」

どちらも断定の助動詞。接続詞としては昔から「だ」の方が用いられてきています(だから、だが、だったら)。近年は「な」も用いられています(なのに)。「だ」の方が固く感じられるということなのでしょう。

参考:『問題な日本語』 44頁

 

さ入れ言葉
歌わさせていただきます

一般化すると「さ入れ言葉」とよばれる誤用です。

「させていただきます」の「させ」は使役の助動詞ですが、使役の助動詞には「せる」と「させる」の二つがあって、付く動詞に違いがあるのです。

文法的に言うと、「せる」は五段・サ変の動詞の未然形に付き、「させる」は上一段・下一段・カ変の動詞の未然形に付くということですが、……

「せて」だけでは使役の意味が強く出ないので、その気持ちをもっと明確に出したいというところから「歌わさせて」と「させて」を使うようになったのでしょう。

参考:『続弾! 問題な日本語』 63頁

 

ら抜き言葉
見れる vs 見られる

ら抜き言葉」とよばれるものです。こちらは誤用として習った方も多いかもしれません。しかし、文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では「見れる」「出れる」などのら抜き言葉を使う人の割合が、「見られる」「出られる」を使う人を上回ったという報告がされました。

定着したといっても、誤用と感じる人もまだ多いため、フォーマルな場面では用いずにカジュアルな場面では用いても構わないくらいの距離感がよいでしょう。

参考:『校閲記者の目』 201頁

 

時間に合わない挨拶
おはようございます/こんにちは/こんばんは

「おはようございます」は敬語文体のため、目上の人に使いやすいという利点があります。対して「こんにちは」は目上の人や初対面の相手に使いにくい、くわえて近しい相手にも使いにくいという特徴があります。じゃあどういった効果があるのかというと、ポジティブポライトネスストラテジー、少し距離感がある人と距離を縮めたいといったときに用いると効果的ということになります。

一方で「おはよう」は家庭内でも使えるようです。「おはよう/おはようございます」はウチソトどちらでも使えて、「こんにちは」はウチにとってはソトっぽく、ソトにとってはウチっぽく感じられる、だからソトの人をウチ側に、仲良くしたいときに使うということでしょう。

参考:牧原功「日本語の挨拶表現とポライトネス : 「こんにちは」について」https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/2001452

さて、ここからは私の考察になります。普段から会う時間帯が決まっている集団、例えば夜に会うことの多い集団にとって「こんばんは」は慣習化しているのではないでしょうか。したがって、近しい相手にも使いやすい挨拶になっていると。どうでしょう。

 

馴れ馴れしい
どうも

結論からいうと、多様な意味をもち発言者と受け取る側に齟齬が生まれる可能性が多いのです。用法はさまざまです。

  • 感謝・ねぎらい・陳謝
  • 対話を短縮し簡略にする場合に用いられる
  • 切り出し、切り上げ、受け取り

参考:住田幾子「日本語のあいさつことば : 「どうも。」のはたらきについて」
https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/1055

ほかの研究では「どうも」の特徴についてこう述べています。

その特徴は、「ありがとう」とも「すみません」とも違う気軽さを持って感謝、恐縮、ねぎらいの念を表現し得ることだろう。しかし、その気軽さゆえに、時には軽薄で信頼性がないように取られる可能性があることも否めない事実である。また、逆に、お悔やみを言う場合など、「立て板に水」式の雄弁なあいさっより深く弔意を表現することができると思われる。さらに、「どうも」の後にいろいろ続き得ることから、次のことばを考えるまでのっなぎとして使うことができると共に、相手に解釈を委ねることもできるのである。 

参考:正木亜紀「あいさつ語としての「どうも」の使用に関する考察」https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/39093

挨拶としての「どうも。」にも近距離性はあるでしょう。というのも、後に続く言葉を省略しているわけですから、気軽な表現として受け取られるわけです。ただ、先の「にんにちは」にもあったように、近しい仲の言葉をわざわざ使うというのは、(無意識にでも)関係性を縮めたいという心理の現れなのかもしれません。

 

 

立場というのが最初からわかっているのならば、フォーマルな言葉を選択するでしょう。しかし、(建前上であっても)対等ならば、カジュアルな表現は「距離を縮めたい」という表明でもあります。文法上の違和感はもちろん感じるでしょう。ですが、感じるからこそ、話し手の(無意識かもしれないが)意図をくみ取ってみるのはいかがでしょうか。

 

高校生から変わってなかった

ジェンダー」が1周、2周……何周も回っているように感じる。

 

高校生のころは男は男らしく、女は女らしくあるべきだと思っていた。しかし大学生になってからはジェンダー規範を嫌悪し、男女平等を切望した。

ところが社会人になると、周りの男性はモテを意識していることに気が付き、周りの女性は「早く結婚して専業主婦になりたい」と言う。サンプルが少ないから正直どの程度確からしいのかはわからないが、世の中はまだ従来の価値観が色濃く残っているのだと感じるばかり。ただ、心中のみは男女平等を芯に生きてきた。

 

……と、ここまでだった。最近はちょっと違う。

例えば、女性の活躍という謳い文句にすこしむむむと思う。というのも、女性が男性性をもって評価されるという構図になっているから。もちろん、性別がどうという点は変わっているので評価はできる。だが、結局は規範の内容は変わっておらず、マッチョイムズ志向のままだ。

 

主体性がある。これは素晴らしい。しかし、主体性がなければならないかといわれると、どうだろう。主体的で、挑戦的で、タフで、しなやかで、そんな人物像が「これからの女性像」として語られるとき、私はどこかで息苦しさを覚える。というのも、それは私がかつて「男性はこうであるべき」と感じていたものと、ほとんど同じだからだ。違うのは、ターゲットが女性になっただけである。気がつけば、私は高校生のころと同じ思考になっていた。

 

ここで、別のあるべき姿を出すのは違う。むしろ、あるべき姿などなくてもよいという意見をもとう。……というのも違うのではないか、と思う。

 

ここは意見が分かれるところだと思うが、そして私が何を言いたいのか説明できるか不安なのだが。絶対的なあるべき姿というのはまずなくて。そう行動するとわかりやすい役割が適宜存在するのだと思う。随時違うキャラへのロールプレイを行うとやや円滑な関係が築ける社会のがよいのではないか、ということだ。行わなくてもよい、という可能性を残しておこう。

 

 

人間失格を読む

人間失格』 太宰治

 

主人公、大庭葉蔵と葉蔵が通う画塾の生徒堀木が屋上で焼酎を飲みながら言葉遊びをしている場面です。妻のヨシ子がそら豆を煮ており、それを取りに堀木が降りていくところからです。

 

「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
 堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。
「なんだ」
 異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、
「見ろ!」
 と小声で言って指差します。
 自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。

 

「そら豆」というのは先ほどまで行っていた言葉遊びの延長でしょう。ここでは、思いがけないことが起きているぞ、という意味でしょう。

「二匹の動物がいました」この意味が明確にわかるのは後になってからのことです。

 

 自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。
 堀木は、大きい咳ばらいをしました。自分は、ひとり逃げるようにまた屋上に駈け上り、寝ころび、雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ、そのとき自分を襲った感情は、怒りでも無く、嫌悪でも無く、また、悲しみでも無く、もの凄まじい恐怖でした。それも、墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかも知れないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるようになりました。実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。自分は、まっこうから眉間を割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。
「同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ」
 気まずい場所に、永くとどまっているほど間の抜けた堀木ではありませんでした。

 

「ぐらぐら目まいしながら」など葉蔵がショックを受けているのが、また「ヨシ子を助ける事も忘れ」から通常ならば葉蔵が助けるべき状況だったのがわかります。しかし「ひとり逃げるように」去って行ってしまったのです。

堀木のいう「お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。」ということは、逆にいえばヨシ子のろくでもない部分を見たということになります。

 

 自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。いくらでも、いくらでも泣けるのでした。
 いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
「なんにも、しないからって言って、……」
「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」

 

少しずつ意味がわかって想像がついてきたと思います。

「なんにも、しないからと言って、……」ということは、言った他者がいたということです。

「いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。」から、ヨシ子は罪悪感があり葉蔵に声をかけられず、しかしながらそばにいているということから、完全な裏切り行為ではなかったことがわかります。

 

 並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや? 相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。
 さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎悪よりも、さいしょに見つけたすぐその時に大きい咳ばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引返して来た堀木に対する憎しみと怒りが、眠られぬ夜などにむらむら起って呻きました。
 ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。
 神に問う。信頼は罪なりや。

 

他者とは商人のことでした。

堀木は葉蔵より年上で、葉蔵に大人の遊びを教える存在です。酒やたばこ、女や左翼思想を教えたのです。そんな堀木が何も対応せずに引き返したことに対する怒りもあるのでしょう。

 

 ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっているものにとって、ヨシ子の無垢の信頼心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。それが一夜で、黄色い汚水に変ってしまいました。見よ、ヨシ子は、その夜から自分の一顰一笑にさえ気を遣うようになりました。
「おい」
 と呼ぶと、ぴくっとして、もう眼のやり場に困っている様子です。どんなに自分が笑わせようとして、お道化を言っても、おろおろし、びくびくし、やたらに自分に敬語を遣うようになりました。
 果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。

 

「いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっている」葉蔵にとって純粋無垢なヨシ子ななくてはならない存在でした。汚れている自分でも真っ白な存在が肯定してくれるからなんとか立っていられる、そんな生命線だったのです。

自分は人を疑い続け(と同時に疑われていると確信し続け)ていたのに、そんな自分でも疑われないほどの純粋さを手にしていたからです。

 

 自分は、人妻の犯された物語の本を、いろいろ捜して読んでみました。けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をしている女は、ひとりも無いと思いました。どだい、これは、てんで物語にも何もなりません。あの小男の商人と、ヨシ子とのあいだに、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持もかえってたすかるかも知れませんが、ただ、夏の一夜、ヨシ子が信頼して、そうして、それっきり、しかもそのために自分の眉間は、まっこうから割られ声が嗄れて若白髪がはじまり、ヨシ子は一生おろおろしなければならなくなったのです。たいていの物語は、その妻の「行為」を夫が許すかどうか、そこに重点を置いていたようでしたが、それは自分にとっては、そんなに苦しい大問題では無いように思われました。許す、許さぬ、そのような権利を留保している夫こそ幸いなる哉、とても許す事が出来ぬと思ったなら、何もそんなに大騒ぎせずとも、さっさと妻を離縁して、新しい妻を迎えたらどうだろう、それが出来なかったら、所謂「許して」我慢するさ、いずれにしても夫の気持一つで四方八方がまるく収るだろうに、という気さえするのでした。つまり、そのような事件は、たしかに夫にとって大いなるショックであっても、しかし、それは「ショック」であって、いつまでも尽きること無く打ち返し打ち寄せる波と違い、権利のある夫の怒りでもってどうにでも処理できるトラブルのように自分には思われたのでした。けれども、自分たちの場合、夫に何の権利も無く、考えると何もかも自分がわるいような気がして来て、怒るどころか、おこごと一つも言えず、また、その妻は、その所有している稀な美質に依って犯されたのです。しかも、その美質は、夫のかねてあこがれの、無垢の信頼心というたまらなく可憐なものなのでした。
 無垢の信頼心は、罪なりや。

 

ここで初めて言及されました。そうです、ヨシ子は犯されたのです。

「あの小男の商人と、ヨシ子とのあいだに、少しでも恋に似た感情でもあったなら、自分の気持もかえってたすかるかも知れません」ということは、悪意があっての浮気であったならばよかったということですね。

しかし、そうではなくたんに純粋無垢なゆえに相手を信頼しすぎてしまったがゆえに犯されたのでした。

夫である自分がダメ人間であることを自覚しているがゆえに、夫という権利を振りかざすことをしなかったのです。

自分の犯した過ちの数に比べたら、ヨシ子なんてたった一度だけで、それを「許す」なんて上から目線の行動がどうしてできるのか。

ただただショックを受けるしかないのです。

 

 唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。自分の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画に近いものを画くようになりました。いいえ、はっきり言います。自分はその頃から、春画のコピイをして密売しました。焼酎を買うお金がほしかったのです。いつも自分から視線をはずしておろおろしているヨシ子を見ると、こいつは全く警戒を知らぬ女だったから、あの商人といちどだけでは無かったのではなかろうか、また、堀木は? いや、或いは自分の知らない人とも? と疑惑は疑惑を生み、さりとて思い切ってそれを問い正す勇気も無く、れいの不安と恐怖にのたうち廻る思いで、ただ焼酎を飲んで酔っては、わずかに卑屈な誘導訊問みたいなものをおっかなびっくり試み、内心おろかしく一喜一憂し、うわべは、やたらにお道化て、そうして、それから、ヨシ子にいまわしい地獄の愛撫を加え、泥のように眠りこけるのでした。

 

ショックをどうすることもできず、アルコールに浸る様子が描かれています。

アルコールを含め薬物というのは摂取すればするだけ反応が起こりますから、裏切らないモノとして表現できます。

そして、例の商人以外と関係はなかったのかなどを遠回しに聞いてみては、そんなことないという回答を得て満足しているのです。

 

以上、『人間失格』の最も好きなシーンでした。