「いき」と「コケットリー」

最近は九鬼周造の思想にめっぽうはまっています。そのひとつに「いき」というものがあります。

 

 

 

 

ここでいう「いき」とは、恋愛でいうと、気になる相手に近づきつつ、距離を保つような態度のこと。

 

「いき」は「媚態」「意気地」「諦め」の3つによって形作られます。

 

「媚態」とは、相手に近づき相手を自分のものとしてしまう態度。
ここでいう、相手を自分のものとすることそのもの、相手と自分を同一とすることを合同ともいいます。
俗な言葉でいえば、下心でしょうか。例えば、ナンパしてお持ち帰りしたいためにとるアプローチが媚態なのです。

 

「意気地」とは、相手との距離をとろうとする態度。自己を保つ強さ。
恋をすると、相手は私のことをどう想っているのだろうか、と意識してしまいます。それは、どうしたら相手に好かれるだろうか、と相手に従属し自己を失っている状態です。そうならない自己の強さ、武士道的な精神を意気地といいます。
メンヘラ状態では、私はこんなに想っているのに、こんなに尽くしているのに、あなたはなんで素っ気ない態度なのと、意気地が弱くなってしまいますね。

 

「諦め」とは、よい距離感を保とうとする態度。他者の尊重。
たとえ合同したとしてもそれが永遠に続くわけではない、合同したら一発逆転できるわけではない。自身の抑圧を恋愛が叶うことで払拭できるという独断な仮説、執着を諦めることです。

 

相手との合同を図りたいという媚態をベースに
・相手の言いなりにはならないと自己を守る意気地
・相手は自身の言いなりにはならないとわりきる諦め
この2つがあわさって「いき」が生まれるというのです。

同一視してしまうような、自分とともに時を過ごしてほしいような、そんな素敵な人でも。ある点から見たら重なり合っているかもしれないけれど、違うレイヤーで、ベン図ならはみ出ている部分もあって、自身とは完全に同じ存在とはならない。逆に自己を失って相手と完全に同じ存在となることもいけない。
そういった他者と自己の距離が保たれた状態で、なお合同を図りたいと思うことが「いき」なのです。

 

 

 

似たようなものに「コケットリー」という言葉があります。宮野はジンメルの言葉を用いつつ以下のように説明してます。

「イエスとノーの不安定な遊戯、承認の回り道であるかもしれない拒絶と、その後ろに、背景として、可能性として、威嚇として、取り消しが立っている承認を見せ」一直線に合同に向かうことなく、合同の可能性を示しつつ、駆け引きを行うことである。(Culture, energy and life ,2017)

多くの恋愛漫画にみられる、くっつくかくっつかないかの曖昧な関係をいうといっても過言ではないでしょう。はやく付き合っちまえよと思うやつです。こういった行いは、選択を引き延ばしし、手に入りにくい存在として自分を高価値にするのです。価値が高すぎると逃げてしまう可能性があるので、これは一種の賭けです。

例えば、素敵な人と付き合いたい気持ちがあって、相手がその気持ちに気が付いている「好きバレ」のとき。あえて気があるそぶりをされたり、○○してくれるんならいいよ、と有利な条件と引き換えにされたり、そこまで直接でなくとも「わざとだよ」と言ってみせたり、そういった焦らされがコケットリーなのです。

 

 

どちらも合同を願いながら、その可能性を提示させながら、一直線にそれをもとめないといった点で同じです。


コケットリーの特徴は、直接的に身体を強調させて相手を誘惑します。一方で「いき」な態度では、合同の事後を想起させるようなものであるといいます。

より熱い合同をもとめ、同一へ未来へ向かうコケットリー。
合同という無心な営みがあった後に互いを尊重できるような、過去へ向かう「いき」。

 

真剣で激しいものこそ価値の高いものこそよいという態度は、ひとつの形かもしれません。ただ、自由な世界はそれで苦しいのです。自己の欲望に忠実になるという媚態は肯定しますが、同一視しすぎて逆にとりこまれたり、相手を邪険にあつかったりすることから避ける、あえての制限を付ける強さも必要なのではないでしょうか。

私はしばしば他者の尊重を忘れて暴力的態度をとってしまうことに反省をしています。他者を下げ、自己の価値を相対的に上げてあたかも肯定しているような感覚を得たく、スポーツや勝負といったルールのうえでの戦いにとどまらず、自慢や知ったかぶりなど、何気なくマウントをとってしまいます。会話で言うと、一方的に話すといったことをするのはもちろん、聞きに徹するという行為も一種の取り込みです(話を聞いてやっているという態度が)。自己中心的に行ってしまうのです。

もちろんこういった行動を互いにし合うことでも、相和はゼロに近い関係を築けるかもしれません。

ですが、互いに尊重し合い、適度な距離間で、その距離感の存続を目的に、「いき」な刹那を楽しみたいとも思います。