時間がないので炭酸水を飲む

ただの水ではなく、お茶でもなく、炭酸水を飲むことがあります。

 

 

 

費用対効果と贅沢

いま何に贅沢していますか? 贅沢というと何をイメージしますか? 私は休日に少し高級な紅茶を飲みながら本を読む時間をイメージします。まず贅沢という言葉を使うときに思い浮かべるのは価格が高いものです。そして、贅沢をしない合理性を費用対効果とも言いかえれますね。またタイパ(タイムパフォーマンス)が2022年の流行語大賞選ばれたのが記憶に新しいです。コストとして金銭ではなく時間をも消費していることがわかります。

 

いずれにせよ、人生においてあまり大切でないほとんどのものごとに関しては費用対効果のよい、言い換えるとコスパ・タイパのよい選択をするのが合理的です。そして余ったお金や時間を大切なものに対して使うわけです。逆にいうと、いまお金をかけているもの、時間をかけている体験が、つまりは大切にしているものといえますね。

 

さて、お金であれば自身で「贅沢しているな」と認識しやすいです。数値でみれますから。しかし、時間はどうでしょう。もちろん何時間使ったと数値で示すこともできます。ただし、時間を消費して得た体験に関してその質の大小をはかるのは難しいことでしょう。同じ時間を消費したとして、ぼーっとしている時間もあれば、演劇や映画を見ているときもあるでしょう。どちらが質的によさそうか、というのは何をもって判断するのでしょう。

 

 

 

贅沢の妥当性

質の妥当性については多くは他者から得ることになります。自慢話を思い浮かべるのがいいでしょう。自己の経験を語り、それをうらやむ人をもって、体験の価値が妥当なものであると感じるのです。

 

そんな嫌な言い方でなくても、相談であったり、今日あったできごとを話したりするなかで、お互いに価値を付け合っているのです。

 

ここで大切なのは多くのできごとは、何をしたかで評価するのではなく誰に認められたかで評価することになることです。価値付けが妥当であろう他者を「話のわかるやつ」と評価し、その他者からの承認を得たいのです。ですから、話しのわかる者同士で集まり小集団を形成することが、体験の質的妥当性を担保できるシステムになるのですね。

 

SNS社会では相互的に評価しあうシステムが構築されています。しかし、人間いつでも他者と一緒にいるわけではありません。

 

SNSに投稿しない、他人に話をしない、自分だけの体験はどうやって評価するのでしょう。

 

 

 

身体的刺激

ひとりでいるときは、ひとりでその体験の質的評価をしなくてはいけません。その価値付けのひとつの評価が身体的刺激でしょう。ひとりで外食をしたとき。その体験を写真にとってSNSにアップしてリアクションをもらうのが他者からの価値付けです。しかし、その場で食べて「おいしい」という評価を出すのは自分です。塩味や甘味をもつ物質がヒトの受容体を刺激し、脳まで信号を送り、総合的に「おいしい」と評価するのです。もちろん、お店に行っておいしいものをたべたという総合的な評価が必要です。ですが、その体験の軸は味覚でしょう。つまり、身体的刺激をともなう体験はその刺激が価値付けの軸になるのです。

 

エナジードリンクにあたるものはここを狙っていると思うのです。だって、有効成分だけを得るのであればマルチビタミンとカフェインの錠剤でいいのですから。それを「飲んだ」という体験に変換して、炭酸と甘味という身体的刺激を加えるのです。あんなものを飲んですぐやる気が出るなんて非科学的です。ですが「飲んだ」という体験を境に、やるぞと意気込むことは合理的です。

 

私は甘味がいらないので炭酸水だけを飲みます。刺激を求めて。ちょっとした贅沢をもらって。それまでのダラダラとした空気や嫌なことを一旦忘れることにして。作業をするぞと意気込むために。

 

ほかにも、身体的刺激がよい体験をつくることがあると思います。

 

 

何か

それでも説明できない、何かを求めることがあると思います。なにか癖のような、執着心、好み。他人には理解されないだろうが、それでいい。非刺激的な自己完結のもの。

 

例えば読書をして知識欲を満たすような。例えば音楽を聴いて好きな音を追うような。ただし、評判のよい本を読んだり、流行っている音楽を聴くのは他人の評価軸を使用しているので自己完結的ではありません。もっと深いなにか原体験を想起させるような、今までの好みの延長線にある新しいジャンルに出会ったような。そういった体験があると思います。

 

 

 

自己完結性は何を目安に考えるとよいでしょうか。昔だったらアイデンティティだとか、日記だとかで自己を見つめなおしていたでしょう。今はもっと複雑な自己をひとまとめにみることができます。それが自身のSNSです。

 

今までの投稿が堆積しある輪郭をもってそこに存在するのです。無計画にされた投稿も、なんらかの形を保っているはずです。たとえば私のTwitterであれば、本や音楽の事について投稿していて。そのなかでも批評系や日本語文法の内容が好み。といった。SNSは、自身のために自己完結的に消費する指標として大切な存在となっているのです。

 

 

 

人生のほとんど、大切でないことは費用対効果をもって合理的に判断します。逆にそうでないもの、お金や時間をかけているものは大切なものです。ただ大切なものがどれだけよいのかはわかりにくいものです。そこで、多くは他者からの評価を求めます。

一方で自身で評価付けできるものもあります。刺激をともなうもの。そうでないものは自己で質的評価をします。その評価のモノサシになるのが堆積された自己。例えばSNSアイデンティティといったもの。

 

 

 

コミュニティに在籍するためにほかの人の好みに合わせているだとか、なんか違うなと思ったら、このことを思い出してください。