friend+こそ、もっとも公共的なインスタンスではないか

VRCのインスタンスにはpublic、friend+、privateなどと種類があります。

公共というとpublicインスタンスを指す、と思っていたのですが、
friend+こそがもっとも公共性を感じるインスタンスなのではないか、と思っています。

 

「公共性を感じる」という言い方をしたのはちょっと理由があります。もちろんシステムとしてもっとも公共的なのはpublicインスタンスです。ですが、違う言葉でいうと「世間」を感じるのがfriend+インスタンスなのかなと思ったからです。

 

 

土井の文を引用します。

考えてみれば、公共の空間に居合わせた見知らぬ他人どうしは、まったく無関係に孤立しているわけではありません。たとえば、満員電車のなかでも視線が相互にかち合ったりしないのは、お互いに、いわば協力し合って意識的に視線をずらしているからです。私たちは、公共の場では不関与でいるべきだという規範に、じつは協力して関与しあっているでのす。これは、意味ある人間として他者を認めたうえで初めて成立しうる、いわば演技としての無関心です。

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

当時の若者について、以下のように述べています。

親密圏に居る人間に対しては、関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっているけれども、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しないほどにまったくの無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしているだけ――

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

 

VRCでいうと、publicインスタンスにいるfriendではないユーザーに対して、無関心で、意味のある人間として他者を認めていないのではないか、ということになります。

そこまではいかなくても、荒らしをするといった理由にとどまらず、アバターが好みではない、使用する言語が異なる、声が可愛くない、などといった理由からもコミュニケーションをとるに値しないといった値付けを行い、「演技としての無関心」すらも行わないこともあるのではないでしょうか。

 

 

一方でfriend+のインスタンスでは、「友達の友達」程度のつながりがあるために、好みではなくてもとりあえず会話しておくか、悪い評価はされたくないな、などといった気持ちになるのではないでしょうか。friend+にはそういう世間によって束縛される公共圏があると思います。

音量の減衰が微妙で聞き取りづらいなら距離をとったり、そういった場では他人の迷惑になるアバターを使用してはいけなかったり、マナーに近いものが無意識的に共有されていると思います。(逆に共有していない人を「空気が読めない」というのかもしれません)

 

前回のブログでも距離感について以下のように書きました。

距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。

 

 

invite+以上のインスタンスでは、招待というスクリーニングを経ているために、そういった世間を考える必要性が薄れています。つまりは親密圏を指すと思います。

 

 

friendのなり方が現代のSNS特有なのもあります。鈴木謙介著の『ウェブ社会のゆくえ』に従うと、とりあえずfriend申請を送りあとから仲良くしたい相手を選ぶ「引き算」の関係性になっているのです。そのため、friend≠友達であって、親密性を示す変数は時間の共有だとかinviteする/されるだとか外部のSNSでのコミュニケーションだとかそういった、VRC以外の影響を大きく受けると思います。

 

すると、friendインスタンスも顔見知り程度の人が来る可能性があるため、意味のある他者として迎え入れなければならないという意味で公共的ですね。friendの数が何百人何千人もいるユーザーはなんかはそう思っているのではないでしょうか。

 

friendという枠が可視化されるけれども、実態としては顔見知り程度のことがあるという現状は、「本当の友達」だとか「親友」だとか「気が置けない仲」にあこがれを抱いてしまいます。それは可視化されるべきものではないと個人的には考えているのです。ですが、どうしても不安に思ってしまうことに同意します。できることといえば、言葉以外の方法でそれを実感させてあげることでしょうか。

 

 

少し話がそれてしまいましたが、friend+という公共的なインスタンスで意味のある他者に配慮することは、われわれ(土井の本が書かれているときに若者だった)が苦手としていた行為です。ですが、最近の私はその行いをするのも自分にとって大切だなと感じるのです。

ディスコードやTwitterでの常時接続による重すぎる親密圏の人間関係で疲弊している現代に、つながりつつ、つながっていないようなfriend+での交流が癒しに感じることもあるのです。