『認められたい』を読んで 承認とキャラについて考えたこと

 

読書の感想です。

熊代亨 『認められたい』(ヴィレッジブックス,2017)を読んで、承認について考えを巡らせていました。

 

承認欲求は、一般的にアブラハム・マズローの「欲求段階説」では4段階目に位置するもの。また、スティーブン・リースの「16の基本的な欲求」では、人に認められること、人から認められていると思えることの両方であるとされています。

ただし、『認められたい』では、狭義の承認欲求だけを言及してはいません。
承認欲求と所属欲求を合わせたものを「認められたい」「関係性の欲求」と呼んで説明しています。

確かに、漠然とした「認められたい」という気持ちを細分化すると、注目されたいという気持ちだけではなく、無視されたくない、仲間とみなされたいといった所属欲求に属する気持ちが結構あります。

こうした「認められたい」気持ちはハインツ・コフートのいう自己愛と重なっていると指摘します。くわえて「認められたい」に悩んでいる人は、それを扱うレベルが低いのではないか、という立場をとっています。

一方で、コフート曰く、自己愛は成長することができる、つまりレベルアップすることが可能だそうです。そのためには適度な欲求不満が必要なのだといいます。

他人に期待した「認められたい」が満たされない経験をしたとき、適度な欲求不満があるとき、その辛さを理解してもらえたり、仲直りしてまた気持ちが通じ合えたりする、「雨降って地固まる」ような経験を積み重ねることが成長につながるということらしいのです。

この「認められたい」を期待する他人は適度な欲求不満を示すような、対等に近い関係が必要だとしています。両親など、必ず褒めてくれる対象では成長につながらないといいます。

『認められたい』では適度な欲求不満や「雨降って地固まる」関係性の作り方として、具体的な方法が第5章と第6章に書かれています。

この関係性について、素人の私ですが、個人的な考察をしていきたいと思います。

 

認められたい 

 

 

といっても、ほかの本からの影響でしかないのですが。「キャラ」という面で考えてみたいと思います。

土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』(岩波書店,2009)や、斎藤環『キャラクター精神分析』(筑摩書房,2014)に書かれている「キャラ」というものを使って、私たちはコミュニケーションをとっていると思うのです。

キャラについてですが、「アイデンティティ」は、一貫した自己のことを指していましたが、対して「キャラ」は後述の引用のとおり、その場その場の断片的なパーソナリティを指すと思います。

「キャラ」とは、「じぶん探し系」のためにあるような言葉である。自己イメージが定まらない、言い換えれば、異なったコミュニケーションの空間で、その都度場面の空気に沿ってキャラを作り出し、あるいは微調整する才能は、「じぶん探し系」の独擅場であるからだ。それはいわば、うまく仮面を演ずるための才能なのである。

(キャラクター精神分析 p29)

 

また、アイデンティティではなくキャラを使い分けていくのみとする立場を「分人」と呼ぶそうです(平野 啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社,2012))。


つまりまとめると、いろんな人とコミュニケーションをする上で、それぞれに対して見せる「キャラ」の中心にいる本当の自己を指して「アイデンティティ」と呼びます。そういったアイデンティティはなく、たんに「キャラ」という仮面がたくさんあるのみだという立場を「分人」とする、こういうことだと思います。

現代はこの分人的コミュニケーションの方が基盤になっており、さまざまなキャラを使い分けて関係性を築いていると思います。
ですから、「雨降って地固まる」関係性を作る上でもキャラが重要になってくると考えています。

 

キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像

 

キャラクター精神分析: マンガ・文学・日本人

 

私とは何か 「個人」から「分人」へ

 

 

もちろんアイデンティティの立場でいても構わないとも思います。強い自己をもっていれば、自身の輪郭がわかりやすく自己肯定が容易です。

こちらはニーチェや岸見一郎ら『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社,2013)で知られるアドラー心理学、「自分を好きになろう」という女性向け自己啓発系の立場だと思います。

しかし、私はあまりこちらのタイプは似合わないかなと思っております。
個人的にマッチョイムズが強く、近寄りがたいという感想もあるのですが、前時代的な価値観であり、「キャラ」コミュニケーションに慣れた私や社会にとってはどこか合わないかなと直感的に思ってしまうのです。なにより「雨降って地固まる」というよりは「雨降っても気にするな」という方が似合っていそうな考え方だからです。

また、(これこそ女性向け自己啓発ですが)二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス,2014)にある「インチキ自己肯定」に陥りかねないとも思っています。

男性優位の社会ではインチキな自己肯定感が満たされやすいのです。

男は、お酒やギャンブル(アウトローな主人公が活躍する漫画や小説に投影している)、仕事の達成感や性風俗で肯定感を得られやすいのです。そういったインチキな自己肯定は社会や仲間が許してくれることで「自分自身に深い疑問を持たないでいられる状態」なのです(そのため、承認の悩みとは無縁というタイプは実はインチキ自己肯定マンではないかと思っています)。

男の変なマウント取りと、ホモソーシャルによるマウント取りが肯定される土壌が、やっぱり私は気に食わないのです。

他人の悪口ばかり言うことでしか、自分を安定できないような人間が、承認のことで悩んでいないなんて考えると、この世のバグかと思ってしまいます。

こういったインチキ自己肯定をされる立場は蝕まれるばかりです。
もちろん、インチキ自己肯定マンはアイデンティティの確立ではなく、強い自己というキャラを演じているのみでしょう。

理想ではあるのですが、こういった勾配のある関係性(インチキ自己肯定する/される)ではなく、対等な関係こそが「雨降って地固まる」ものになるのではないでしょうか。

勾配のある関係性は、一過性であったり一方向性であったりするものです。また、権力差のある上司と部下、男女関係、こういったものはハラスメントを孕んでいます。一時的な承認欲求は得られるかもしれませんが、「雨降って地固まる」ようなものではないと思います。むしろ予定調和な関係でしょう。

対して対等な関係を築けられれば、持続可能かつ、承認しあう関係になれるかと思います。あたりまえですが、承認欲求は承認してあげる側の存在も必要なため、自分がその側に立ちときには相手にも立ってもらえるような関係性がよい関係だと思うのです。

 

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

 

 

これをキャラとして考えると、互いが自身の演じているキャラと理想の自己と実現可能な自己の乖離が少ない状態同士でコミュニケーションがとれる、ということかと思います。

そのために私たちができることは2つあるかと思います。

1つ目は、キャラの押し付けをしない、キャラ変を認める

2つ目は、コミュ力ではなくコミュニケーション能力

 

キャラの押し付けをしない、キャラ変を認める

私たちは互いがキャラを演じてコミュニケーションをとっています。一方で、自身の理想の自己像は別にあります。なぜならば、キャラというものは、空気を読むことによって受動的に作られるからです。そのため、自身がこう見られたいという自己像と演じているキャラに乖離があります。

また一方で、理想の自己像を追い求めていても現実的に限界があります。

他人から決められ演じているキャラ、理想の自己像、実現可能な自己、この3つをバランスよく調節することでキャラの安定性が増し、それを容認しあえる相手とのコミュニケーションが対等な関係になるのではないでしょうか。

そのため、他者がキャラを調節しても元に戻れと言わない、自身がキャラを調節しても同様に言われないようにしたいです。

また、そのキャラも、いじられキャラや毒舌キャラといった、関係性の勾配を内包しているキャラを押し付けない、押し付けられないようにすることも大切だと思います。

このあたりについては、斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA,2022)が詳しいです。

 

コミュ力ではなくコミュニケーション能力

キャラ的コミュニケーションの背景には互いのキャラをいじり合う「コミュ力」というものが重要視されています。

斎藤環『承認をめぐる病』(日本評論社,2015)に書かれるような、バラエティー番組の芸人同士のやり取りを教科書とした、つねにマウンティングといじり合いが行われるコミュニケーションの得意さを「コミュ力」といいます。

「雨降って地固まる」ような関係性をはぐくむうえでは、こういったコミュ力重視の関係ではいけないと思ってしまいます。

もちろん、LINEスタンプのような当たり障りのない会話を用いて、ひな壇芸人のようないじり/いじられの関係を築くのは土井隆義のいう「優しい関係」(ボケ役とツッコミ役のように互いに補完し合うキャラを演じることで人間関係を維持し予定調和の摩擦のない人間関係)を求めるのは、ときに必要かもしれません。

しかし、「雨降って地固まる」ような関係は摩擦があることを認め合う関係なのではないでしょうか。

 

「自傷的自己愛」の精神分析

 

承認をめぐる病

 

 

いやいや、そんな簡単に関係を築けないから「キャラ」コミュニケーションしているんだよ、と、話はもとに戻ってしまいそうです。

少なくとも私はこうしたことを考えて普段からコミュニケーションをとっており、今回感想を通して言語化しました。少しまじめで、冗談が通じにくい方と言われていそうです。

ただ、そこまでインチキ自己肯定に陥らずにいられているので、少しは効果があるかなと思います。

 

まだまだ「認められたい」のレベルは低いですが、互いのキャラ変を認め、様々な相手の表情を知ることに嬉しさを感じられるコミュニケーションを築いていきたいと思います。