1年の振り返りをします。
この1年、ブログを通してVRChatについて私感を少々綴っていました。過去の記事でも取り上げている通り、私のスタンスはVRChatは現実と地続きになっているということです。世間ではVRをリアルと比較してその優位性を語っているように思えてならないのですが、私はそう思わず、ただただ拡張された現実のひとつだなと感じるのみなのです。
実際、VRのおかげで広がった趣味はあります。リアルでは行かなかったクラブ系のイベントに行ったり、ファッションにこだわりをもってみたり、さまざま今までの生活から変化したところがあります。ただVRの特権というか素晴らしさというか、聖域のような印象はありません。VRChatを2~3年続けているため、初めてのころにあったときめきなどが薄れてしまっているからこういった考えになったのかもしれませんが。また、ある程度のハードル(高性能のPCやVR機器の購入)を越えてこの世界に入り込んでくるため、価値観がまったく合わない人をスクリーニングできることもあるでしょう。
しかし、それらはVRの特権ではないと感じるのです。趣味嗜好のきっかけやある種のゲーテッドなコミュニティは、以前であれば2chやニコニコ動画がその役割でした。今目の前で行われているこれらは、ただ時代とともにその場が移り変わっただけだと思うのです。VRの特権というのは視覚的な情報量の多さ以外ないとさえ思うことがあります。
VRで「なりたい自分」にはなれない
例えば「なりたい自分になれる」というキャッチコピーは誤りだというのを、みなわかっているでしょう。なりたい自分にはなれません。
以前の記事で書いたことですが。
『メタバース進化論』(技術評論社,2022)からの引用です。
基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」として人生を送ることが可能になるのです。(p153)
3つの意見があります。1つめは「受け入れる」ことへの対抗が自由とされていること。2つめは自由にデザインできず、ある型を模倣すること、もしくは型からの変形でしかないこと。3つめは人生を送るためには1人では不十分だということ。
1つめは揚げ足取りかもしれませんね。2つめは、例えばアバターであれば基本の型(アバター)があって改変をするのです。土台は決まっていてそこに要素を付け加えたり消したりするのです。これを改変とよんでいますね。つまり、自由というのは「なりたい自分」になれるのではなく、ある型を土台にして改善や修正していくしかないのです。まったく別物のユニークなものにはなれないのです。
そして、一番大きいのですが、3つめ、たとえ理想の容姿やロールプレイの技術を手に入れても、それを通して人と関わらなければ人生を送るというゲームをプレイすることはできないのです。つまりは誰かと関わらなければならず。コミュニケーションがVRChatというゲーム満足度を上げる一番の要因になると感じるのです。見かけ上なりたい自分になれても、それで生活を送ることは難しい。そのため、なりたい自分と認めてもらえる自分の境界線を模索するゲームに落ち着くのです。
また、言葉上矛盾のように感じますが、一方で「何者かになりたい」という気持ちは肯定してます。
ここでいう「何者かになりたい」のは、承認される像としての話です。したがって、「なりたい自分」や「作りたいもの」は受け入れられて初めて存在できるため、公共圏の範囲内でしか自由度はないのです。
例えば公共圏を無視して、小児の性風俗嬢アバターを作り上げることはできるでしょう。しかし、世間はそれを受け入れることはなかなかできないのです。
キャラと体
コミュニケーションについてはとくに承認欲求やキャラクターといったキーワードを中心にブログのエントリを書いてきました。また土井隆義の著作をよく読んでいました。
土井がいうには、現代では公共圏では「素の自分の表出」、親密圏では「装った自分の表現」となり、以前の自己表現とは逆転してしまっているというのです。また、「装った自分の表現」を優先させ、異質な点を隠す「優しい関係」であるといいます。つまり集団からハズれないように、ハブられないように、同化してつながり続けるのです。一方で集団から離れ、知らない人の中にいるときは特段同化を意識しないのですね。
これは本ブログに関係ないことですが、
こういった親密圏・公共圏、ウチ・ソトの2項対立ばかりを考えていたのですが、その間にもうひとつレイヤーがあるのを知りました。
「体(てい)」というものです。
引用元は就活の話ですが、応用できると思います。土井のいう内キャラ(本心)と外キャラ(コミュニティで演じているキャラクター)は納得できます。その中間に、「体(てい)キャラ」があるのではないか、と思うようになりました。
VRChatをしていると演じているキャラ(外キャラ)だけでは不十分な場面がやってきます。例えば、しっとりとした空間であったり、好きな人との会話だったり。内キャラの一部をさらけ出すことが必要になる場面がでてきます。自身の内面を打ち明ける、カミングアウトというのはしばしば屈辱的で羞恥心を伴う行為です。そして集団からハズれないようした「優しい関係」を維持できなくなる危険性があります。
メンヘラというのは、この内面を正直に話しすぎなのです。私も含めて。こういったときは、体(てい)を使うのがよいのです。方便です。例えば、君が一番好きだよといつでもいうのです。べつに一緒に居なくて寂しいと思っていなくても、寂しいという体にするのです。
ホモソーシャル
「装った自分の表現」を優先させ、異質な点を隠す「優しい関係」を行い、同質主義なのが現在のSNS社会(=VRChat)だと思っています。なかでもサービス利用者は男性が多いわけですから、男性優位主義machismoを感じることが多いです。
この記事ではこんなことを言ってたんですね。
メス男子について
「男らしさ」から「降りる」という選択肢もできると思います。アバター・女声やボイスチェンジャーなどで女性的なコードを身にまとうことが可能なのです。「男性」という地位につかないという選択肢で、自ら貨幣として扱われることで、社会に参加するのです。
ここで、見かけ上、ギデンズのいう「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」に近いと感じてしまいます。自由に塑性できる性のため、「対等な人間同士による人格的絆の交流」という親密な関係性と錯覚してしまうのではないでしょうか。
(実際は選択したジェンダーのロールプレイのため、対等ではないように思えますが……。)
つまり、ロールプレイによる演技は誇張を伴うわけです。そのため、男性性から降りて男女隔たりない対等な関係を望むのではなく、男女の差を強調させる行いなのです。
お砂糖について
また、リアル社会では結婚することがまだまだ常識であり、むしろ義務のように感じます。
そのような中での「お砂糖」という関係は、結婚とは対極にある恋愛の純粋でプラトニックなものとして経験されるのではないでしょうか。
つまり、(同性同士なので)永遠に結婚することはできないという制約自体が、結婚して家族を作って生活するような生々しさをイメージすることなく、まるで愛人かのように、純粋な愛情と錯覚するのではないでしょうか。あくまで異性間のお砂糖を除いた話ですが。
そう考えると、メス男子もお砂糖も、男女平等に向かった結果ではなく、男女差が開く方向に誇張された結果なのではないでしょうか。
VRChatに限らずSNS社会、自身をどのようにでも名乗ることができます。しかし、名乗ったところでそれを認めてもらわなければ実感はありません。そのため、認められやすく誇張した外キャラを演じています。それは自身だけでなく他者もそうです。認めるにはある程度の基礎知識は必要です。ですから、似たようなところに似たような人が群がる結果となります。同質であることを確認してほっと一安心するのです。こっちが認めてやるんだからそっちも認めなさい、という契約を無意識的にやっているのですね。そんな同質性に富んだ中では少しの差異がとてつもなく強烈に見えます。だから例えば「オレたちキャラ濃いww」という寒さが出るのですね。でもいいのです。それで。その同質でゲーテッドなコミュニティの中である役をロールプレイすることでしか、私たちは実感を得られないのですから。
ただできる抵抗はいくつかのコミュニティに同時に所属することでしょうか。もしくはリアルを生きるか。案外、リアルの方が生きやすいかもしれません。