バーチャル美少女ねむ 著『メタバース進化論』(技術評論社,2022)を読みました。
メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界
なかでも第5章、コミュニケーションのコスプレがおもしろかったので、読書の感想としたいと思います。
まず「コスプレ」という言葉について。前章でアイデンティティのコスプレについて以下のように述べています。
基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」として人生を送ることが可能になるのです。(p153)
これはアイデンティティについてですから、コミュニケーションに置き換えると、本章では以下のように展開されることが予想できます。
- 受容せざるを得なかったコミュニケーションを覆すことが可能
- コミュニケーションに自由さがある
- 望むコミュニケーションを実施することが可能
この思考から、ある程度コミュニケーションに不自由さを感じていた、もしくは現在のコミュニケーションに不自由さがあるという感覚をもっていることがわかります。私もそういったものに苦手や嫌悪感を抱いており、とても同意します。
実際、本章では以下のように述べています。
メタバースにおいて関係性や行動が大きく変化するのであれば、介在するフィルターを恣意的にデザインすることによって、人と人のつながりや行動、ひいてはそれらの集合体である社会を大きく変化させることができるでしょう。あるいは、物理世界において介在していた、年齢、性別、肩書などのさまざまな「フィルター」を排除して、魂と魂による本質的なコミュニケーションを加速させ、より理想的な社会が実現できる可能性があるのではないでしょうか。(p201)
これを「コミュニケーションのコスプレ」と呼んでいるそうです。
まとめると以下の主張になるのではないでしょうか。
- 現実社会・物理的な世界においては「フィルター」をとおしたコミュニケーションが不自由さをもっている
- 「フィルター」をとおしたコミュニケーションは本質的ではない
- メタバースにおいては、「フィルター」は自由にデザインすることができる
- メタバースにおいては、「フィルター」を取り除くことができる
- 「フィルター」を取り除いたコミュニケーションは本質的、理想的である
フィルター、本書の別の言葉を借りると非言語コミュニケーションについてこの後記述しています。具体的には、距離感、スキンシップ、恋愛、セックスといった例を紹介しています。
距離感の項目ではVR飲み会を例に挙げています。
乾杯をしたり、会話の輪ができていたり、3D技術によって作られた空間性によって相手との心理的距離感が空間的距離間として可視化され、お互いの距離が縮まると述べています。
zoom飲みが流行しなかったことや、実際に距離感が縮まったというデータ、女性アバターが「距離感を縮めるフィルター」であるといった考えを用いて支持しています。
スキンシップは距離感と相関があると紹介されています。
不快に感じる文化圏があると紹介する一方、こういったスキンシップを「心の触れ合い」と表現しています。
恋愛については、その性質は物理現実とは大きく異なっている部分も見受けられるといいます。
恋愛感情について物理性別は重要でないといった支持が多いデータや性格が決め手といったデータから、視覚的フィルターにとらわれずに内面と向き合えることが理想であると述べています。
恋愛やセックスといった性行動が最も根源的なコミュニケーションのプロトコルであるとしています。くわえて、コミュニケーションの「コスプレ」ができるのならば、自由にデザインをすることが可能なのであれば、プロトコルを書き換えることができるのではないか、そう締めくくっています。
まとめると、
メタバースでは現実世界の属性などを削ることで、それゆえに不自由なフィルターを通して行っていたコミュニケーションから脱することができるという主張でしょうか。
距離感やスキンシップといったフィルター(≒非言語コミュニケーション)、恋愛やセックスといった作法(≒プロトコル)が自由であるなら、それ自身も現実世界の常識を超えた、個と個のつながり合い、本当のコミュニケーションがとれる、というこでしょうか。
私はこの主張に同意できません。
まず、「本当のコミュニケーションというものがある」という思想がプラトン主義のようで似合いません。また、「メタバースでのコミュニケーションは自由である」といった主張が経験と合っていません。
私の知るメタバースでのコミュニケーションはもっとドロドロとしたものです。
恋愛やセックスといった、衝動的なもの、自分の中から湧き出るようなもの。そういったものを他者と共有しあう儀礼を根源的なプロトコルと呼ぶのであれば、それはそうなのかもしれません。
ただし、そういった内なるものをフィルターを介さずに、あるいはフィルターを自由に設定し行っていると主張するのであれば、それには反対します。
私が過去にあげたエントリやSNSでの言動からもわかるかもしれませんが、私はメタバースでのコミュニケーションに不自由さを感じています。
これは、本書の言葉を借りるのならばフィルターが不自由に設定されているということです。
例えば本書で例にあがっていたVR飲み会ですが
- 乾杯の強要
- 下ネタ
- 少人数で輪になる
といった、現実と同様の光景が見受けられます。「いやだったらミュートすればいい」という自己責任主義的なノリを感じ、むしろこういったものが過度になっているとも感じられます。
乾杯のノリは権力ですし、下ネタはホモソーシャルの同調圧力です。
距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。
むしろ、「仲の良さ」は距離空間ではなく、インスタンスの共有や時間の共有に依存していると感じます。話し合っているときの物理的距離ではなく、休みの日に一緒に遊びに行くような招き招かれの関係、ずっとLINEしてるような時間の共有が仲の良さを示しているように思えるのです。そういった意味で、現実とさほど変わらないのだと思うのです。
むしろ、空間が限定されているからこそ、現実より大切な人とそういったことをする傾向があるように感じます。
だって、近くで話してくれる人よりは、インバイトをくれる人の方が「仲の良さ」を感じませんか?
本書は、現実世界の属性を排除したコミュニケーション(本当のコミュニケーション)の理想を描いています。ですが、私の感じるバーチャルは現実世界の属性を強化させたコミュニケーションなのです。
現実とはまったくことなる何処か何かという仮想ではなく、現実の特徴をデフォルメし誇張し、まるで二次元のキャラクターとしてふるまう2.5次元なのです。
とくに、現実で空気を読まざるを得なく男性性を表現できなかった弱者男性が、目の上のたん瘤がいなくなったからと、その男性性を存分に発揮している場として感受しています。
本書で述べられている本当のコミュニケーションというのは抑圧からの反発であって、ベクトルの向きが180°かわっただけで、その軸は変化していないように思えます。
それ自体は悪いことではないと思いますし、私自身もしているところもあります。
ですが、これは自由ではないなと実感しながら楽しんでいるのです。
そうではなく、異なる軸への変化こそが自由に近いのではないのでしょうか。
そのためには、本書で言われているプロトコルは変化させずともよいと私は思います。
むしろ、より多くの他者と既存のプロトコルをとおしたコミュニケーションをしたり、得られるものへの感じ方が変わったり、そういったことがあるといいのかなと思います。
そうはいっても、現在のメタバースを書き表し1冊にまとめた業績には頭が上がりません。
私のブログの方が理想を語っているのです。
実際に面白い本なのでみなさん一緒に読んで感想を言い合いませんか?