何者かになりたい

私は「何者かになりたい」という欲求を肯定します。
そもそもこの欲求は文字通りの意味を超えた複雑なものだと思っています。ですので、これらに関してのいくつかの批判はベクトルが異なるものだと感じます。悩める人はそのような意見に負けず欲を求めてほしいです。

 

だって、素直に、正直に、何者かになりたいじゃないですか。
そんな青臭くもエネルギッシュな感情を、誰の言葉を借りたのか元をたどれないほど擦られた定型文で説教されても、解消するどころか反発してしまいますよ。
先にも書いた通り何か視点がズレている気がするんです。(これは誰が悪いだとか言うことではありませんよ。)

 

おそらく「何者かになりたい」といったときに、その内容は次の①②の属性に分けられるのではないでしょうか。

 ①独立、じぶんで選ぶ、他者とは異なる
 ②共感、選択肢は既存、他者と大部分は同じ

②で悩んでいるのに①であろうと言われたら、それは意見が食い違います。

 

 

例えば「じぶん探し」などがこれにあたるのではないでしょうか。
生命体レベルで個であり、家族の一員であり、過去を追ってじぶんに対するルーツを再認識するような行い。そうやって自己を説明するさまざまなことを認識しなおして、自己を再構築する、そういった「じぶん探し」の途中にあたるのが、①の意味での「何者かになりたい」なのではないでしょうか。

 

ポジティブな言葉で言い換えると、将来の夢をもつというのも「何者かになりたい」でしょう。
ちょっと現実的に考えると、社会人になることは、家庭環境という依存からの独立。「上京」というのも、田舎という環境からの独立です。
さまざまな選択肢の中から自分が好んだものを選択します。他者と異なることを強調し、ほかの何でもないじぶんという感覚を得ているのでしょう。ファッションや趣味はその具体例といっていいでしょう。

 

斜に構えたサブカルという個性をもって、自己の説明文を強固なものにしていくのです。自分で選び、他者と異なるものであればあるほど、個性が強調されます。

 

 

私たちは常に個人でいるわけではありません。とくに現代社会はSNSによる常時接続で「内輪」が存在するわけです。この内輪という世間のなかでじぶんの役割はなんなのだろうと考えるのが②の意味での「何者かになりたい」ではないでしょうか。

 

世間という集団がやっかいで、そのグループに認められなければ、共感されなければ評価されないのです。
ですから「そういう奴いるよね」「俺たちキャラ濃すぎ笑」という、本来の意味での個性ではなく、あるある濃度の濃い概念をロールプレイをして共感を得る必要があるのです。ここで、本来の意味の個性、つまり①を発揮してしまうと、そもそも共感されずにノリの悪い奴として集団から排斥されます。それでは集団から評価されるという前提条件が満たせません。

したがって、演じられる役割はある程度共有されているキャラクターであり、選択肢は既存なのです。
また、そもそも集団に入る時点である程度共通点をもっている必要があるのです。

 

斜に構えたオタクといっても、オタク集団であることに変わりはないのです。その中で、斜に構えているという役割を担っているのです。

 

仲間内での立場、という感覚でしたら、小さい悩みかもしれません。

ですが、SNS常時接続の社会では、家族、高校の友達、大学の友達、ネットの友達、職場の人たち、さまざまな集団にまで広がっていき、「何者かになりたい」と悩むのではないでしょうか。

 

 

 

たとえばクリエイティブなことがすぐ実現できるような環境にいれば、そのクリエイティビティが「何者かになっている度」という、感覚的ではありますが、数値化してしまっていて「ああ、あのひとは何者かになれてていいなあ」と羨むのです。

 

そんな②のことで悩んでいるのにもかかわらず、「君はかけがえのない個人だよ」と①と声をかけても、なかなかひっかかりが解消しないのです。

 

 

また、②の意味で「何者かになりたい」欲があるときは、土台が不安定な場合もあります。つまり逆に言えば、集団への帰属意識を満たしたときに、何者かになった気がするのです。

おもしろいことに、差異を求めるのではなく、共感を求めていたということになる場合もあるのです。

 

 

今欲しいものは、自分が今までやってきたことが自分をつくるだとか、ただいるだけで価値があるだとか、そういったことではなくって、
内輪ノリの楽しさを帰属として昇華して、なおかつ確かにその中で役割を与えられ/見つけて行うという充実感なのです。