以下ツイート群を読んで、ジャニーズ問題から推しの構造を考えるようになりました。
「日本ではなぜ政治的な音楽/アーティストが支持されづらいのか」という原稿を書いていたのだが、ここ数日のジャニーズ問題やそれに対するファンの反応(ジャ○ーズ事務所を応援しますのハッシュタグなど)を見て、日本のエンタメ業界の構造自体にその理由があることを考え始め、一からやり直してる...
— 竹田ダニエル (『世界と私のA to Z』6刷突破) (@daniel_takedaa) 2023年9月9日
ジャニーズのタレントたちが直接的でなくとも構造的に被害者である現実にもかかわらず、「ジャニーズを起用してくれる企業の商品を買って応援すべき」という、「金を使うことでタレントを金銭的に勝利させる」ことが「ファン」としてのあるべき姿かのように思わされてしまっている。そこから見えるのは
— 竹田ダニエル (『世界と私のA to Z』6刷突破) (@daniel_takedaa) 2023年9月9日
実際アーティスト/タレントの人権、ないしは個人の見解や公的には発表しない意見などは決して大事ではなく、その「推し」が社会的に勝つことによって、自分たちも(何かしらの指標で)「勝つ」側になれる、という錯覚の表れでもある。人権よりも金が大事だという潜在的な意識があるからこそ、被害者に
— 竹田ダニエル (『世界と私のA to Z』6刷突破) (@daniel_takedaa) 2023年9月9日
もともとの意味とは別に、推すという行為にある種の錯覚があるというのです。アーティストやタレントを社会的に勝者にすることによって、自分たちも勝者になれるという投影が。そういった人たちを応援する活動は経済活動ですし、社会的勝者とは経済的な意味も十分に含むでしょう。
個人的に勝者気分へ浸っていることは別によいのです。ですが、経済的支援を行っていると主張することで勝者であると棚に上げてしまうのはいかがでしょうか、と思ってしまうのです。同じような意見のポスト(ツイート)をみつけたので引用しますね。
ジャニオタ的に「いかに推しにたくさんお金のつかったか」マウントがオタク全般に蔓延・浸透してて「自分らが推しに払ったカネで経済回ってる」とか言いだしてる状況なのだが、たしかにオタクには昔からそういうところはあったけど、ますます「理想的な消費社会の守護者」になってる感ハンパない。 https://t.co/dJLjyEbK2b
— 西田三郎 (@iWkul9DKo9dbUaS) 2023年9月9日
「推し活で経済を回す、という主張は自身の行為を資本経済の遡上にあげることで許されるという考えである。それは免罪符を買えば救われるという考えに等しい。そんなものは唾棄すべきである、いまこそオタクのためのマルチン・ルターが必要なのだ」 https://t.co/a9re77J7he
— すぱんくtheはにーMk-Ⅱ (@SpANK888) 2023年9月9日
いやしかし、推すことが経済的支援になっているのは事実ではないかという指摘もあるかもしれません。ですが、例えば書籍であれば以下のような推し―推されの関係性があると思うのです。
(RT)(こんなこと書くと怒られそうですが。)自著について「ブックオフで買おうが、友人に借りようが全然問題ないです」とことあるごとにツイートしているのは、作者と読者の間には「推し」とか「買い支え」とかとは別の関係があってほしい、という思いがあります。もっと淡くてドライでいい。
— 飛浩隆 TOBI Hirotaka (@Anna_Kaski) 2023年9月9日
ここまでを少しまとめると以下のようになるでしょう。
推すという行為をするとき、推す側は推される側へ投影を行っている。それは、推される側が社会的に成功することで自身も成功したように感じることである。
だが、錯覚であるにもかかわらず、自身が成功したかのように、成功させたかのように、投資したかのようにふるまうことがある。それをもって正当性を主張するのはいかがか。
そもそも推すという行為に経済活動が伴うという構造がそれを錯覚させているのではないか。経済活動を伴わない推す行為として、古本屋で書籍を購入することでも推すことはできるのではないか。そういった読者―著者の関係、推し―推されの関係を淡くてドライな関係と表現している。
淡くてドライな関係を考えるために、推すことが必ずしも経済活動を伴わない関係をとりあげようと思います。
そのひとつがVRChatイベントキャストの推し―推されだと思うのです。
ただし、推しという構造的には同じだと思いますので、既存の枠を当てはめて、あらためて淡くドライな関係を考えてみましょう。
まずは経済活動の有無です。
基本的にVRChatイベントキャストを推すことに経済活動は伴いません。イベントはほとんど有志が行っているもので基本的に無料です。推しのキャストができて推すと表明し、推しに会いにイベントに通うことにお金はかかりません。そういった意味で淡くドライな関係に近いかもしれません。
ただし、キャスト個人への感謝をこめてAmazon欲しいものリストからプレゼントを贈るといった行動をすることはしばしばあります。こういった行為は既存の濃くウェットな関係に近いでしょう。
社会的支援はどうでしょう。
VRChatでの社会的地位というと、人気や質のよい交流でしょうか。これについては以前にブログで考察したことがあります、というかこのブログ全体のテーマでもあるかもしれません。そこの詳細はいったん不明のまま、仮置きで考えてみたいと思います。
人気や質のよい交流の支援というのは、なかなか難しいことでしょう。もちろんイベントに会いに行って、ある程度認知される客としてふるまうことによって、キャストが人気者になることはできることでしょう。しかし、VRChatterとしてイベントだけをやっている人は少ないのです。むしろオフのときこそ、選択的で質のよいと思っている人と居るのではないでしょうか(イベントは交流する相手を自身で選べないので)。
つまりはオフのときこそVRChatでの社会っぽさがあり、そこを支援できているかというと、やはり一般の推す側ユーザーでは難しいでしょう。
となると一見淡くドライな関係にみえてきそうです。
一般的な推す側は、推すことによる成功錯覚や、公式からの供給、ファンサによって報酬を得ます。VRChatでは成功錯覚や公式からの供給はほとんどなく、ファンサがある程度でしょうか。
先にも書いたとおり、ファンサが行われるのはイベントのロールプレイ上であるはずです。そのため、いわばオンのときなのです。推し―推されの関係は報酬を含めてイベントの中で完結しているのです。しかし、推す側のユーザーとオフで個人的に会うということはVRChat上では日常的なことです。イベントおつかれさま、とfriend+のインスタンスで話すなどよくあることです。
つまり、オフでイベントキャストと会うことは個人的な行為なのにもかかわらずファンサのように感じてしまうのです。そのことを混同し嫉妬してしまうと、ドライというよりはウェットになってしまうでしょう。
ということは、ドライな関係は報酬を受け取るようなものではないのではないでしょうか。
そもそもアーティストやタレントやVtuberなどある程度推し―推されの成熟した関係で用いられていた言葉をこちらでも適用することに不十分さがあったのかもしれません。ですが、似たような感情を言語化して運用していることは素晴らしいことです。
この未成熟ながら、支援して報酬を受け取るというような枠から外れた、別の形の推し方が淡くドライな推しなのではないでしょうか。そう考えると、われわれはまさに部分的に実践しているのかもしれません。なかなか、難しいんですがね。