ネガティブな人が好き

SNSの投稿にはハッシュタグだけでは表せない属性があります。それが感情です。画面スクロールでサッと目に入れる間に感じるものとしたらポジティブさ/ネガティブさでしょう。

もちろん、ポジティブな投稿は人をポジティブにさせる効力があり、ネガティブな投稿は人をネガティブにさせると思います。そして人を不快にさせないほうがよいとも思いますので、ネガティブな投稿は慎むべきです……

……という結論にはならないのです。

 

 

 

ポジティブの否定

情報

人は刺激のない情報だけでは満足しません。例えば、いつでもX(Twitter)の投稿からニュースが見られ、ネット配信ではニュース専門のチャンネルがあり24時間情報を得ることができます。そうなると既存のメディアであるTVの視聴量が下がり困ってしまいます。そこでTVでは刺激の強い内容や、インターネットを見ている層と共感を得られる内容を製作します。インターネットで人気の情報をTVで紹介する逆輸入的なものを見たことはありませんか?

ネガティブな投稿には刺激があります。ショッキングな内容かもしれません。見たくないかもしれません。ですが、そういった内容を目にすることでポジティブな投稿のポジティブさが保たれるのです。ポジティブな情報ばかりでは、どこを超えればポジティブと判断されるのかという閾値を上げてしまうのです。

 

投稿から思考

投稿のせいにしていますが、自己の中にネガティブな思考さえあれば、ポジティブさの閾値は上がらないのではないか? とも思いませんか。

文字に起こして投稿する、といった一連の行為をすると、思考も共振してしまいます。ですので、ポジティブな投稿を続けることはポジティブな思考に暗示していることと変わりません。

 

 

ネガティブの肯定

疑うこと

ネガティブさは現状への不満です。疑うことは学びの基礎ですから、なにも悪いことではありません。知的行動です。

逆にいえばポジティブさは現状への満足です。身体・感覚としては現状に不満をもっているのにもかかわらず、「ネガティブはダサい、ポジティブでなければ」という気持ちになってしまうと、現状を受け入れてしまい、ねじれが起こって疲弊してしまいます。

 

SNS疲れへの処方箋

ポジティブさは現状への満足ですから言い換えればリア充的なものです。SNSリア充アピすると言い換えてもいいでしょう。FacebookInstagramで理想の自分を構築していきリア充アピールをし続けること、まわりのそういったキラキラな投稿を見ること、これらがしんどく、SNS疲れといわれてきました。

充実していることが常時なわけありませんが、見える世界はみな充実なのです。そうなると自身が不十分に思えてしまうのも無理はありません。そして、投稿という形で積み上げてきた仮想自己と自信の不十分さの齟齬がさまざまな負の感情を生み出すのでしょう。不十分な人間という証拠を自身の投稿に残すことでその仮想自己をリアルなものに近づけられないでしょうか。

 

 

重さとタスク

ここまでネガティブな投稿を肯定し続けました。ですが、重い投稿は対応に困るというのもあるでしょう。この「重い」投稿によって、お前のことなのにSNSに投稿して、俺に言うなよかまってちゃんか、みたいな感想をもってしまうでしょう。

こういった感想は一部正しく、確かに投稿者の事情なのでしょう。しかし、かまってちゃんか(もしくはわざわざ人前で言うなよ的な)感想は、そう思っている時点で受け手のタスクになっている節があります。別に受け手のまっとうするタスクではないので、冷たい言葉ですが、放っといても大丈夫なのです。

私もヘラツイをよくしますが、書くこと、誰かが見ていることに意味があって。反応してくれたらやや嬉しい。けど、無理になにかしてほしいわけじゃないんです。

 

 

 

 

ポジティブとは現状満足です。環境への満足は上記で述べた通りですが、自己についてはどうでしょう。今のままで十分いいということでしょうか。少し違っていて、自己分析のような診断をしたり占いをしたり、過去の功績を見直したり、自身の価値を認めることがポジティブで現状的でしょう。つまりは、自身の中になにか原石のような「アイデンティティ」があって、それを掘り起こして、磨いているわけです。

ネガティブな現状不満の立場ですと、自身の中には「アイデンティティ」はなくって、常に悩み、自己の一部を否定しながら絶えず形を変えていくでしょう。これからの不安という伸びしろですから、何も焦ることはありません。

 

私は自分が何者か説明できて、メンタルタフネスで、悩んでいる人を元気づけられるような人間には、少なくともなりたくありません。

自分を説明することなんて到底できなくて、メンタルは弱くて、悩んでいる人とは一緒に悩んでしまう。けれども物事に敏感でありたいし、そういう人が好きです。

お題「夏に聴きたくなる音楽と言えば」

お題「夏に聴きたくなる音楽と言えば」

 

このアーティストの曲を聞くと中央線沿いのような郊外をイメージします。人が集中するわけでも閑散としているわけでもない夏の郊外を想起させるこの曲からも、過ごしやすさを感じます。大学の夏休みにドライブしながら聞きたい曲ですね。
cero / Summer Soul

open.spotify.com

 

 

過ごしやすい夏というと、夜の涼しさに連想できるのではないでしょうか。恋人との二人で夜の散歩をしてさ、こういう曲を口ずさみたいなって思うわけです。コンビニエンスストアで缶ビールを買ってね。2曲続けて紹介したい。
きのこ帝国 / クロノスタシス

open.spotify.com

フレンズ / 夜にダンス

open.spotify.com

 

 

夏夜といえばやっぱりこの曲。夏の夜って外に出る時間もあってか、昔のことを考えてしまうんですよね。そして昔の人のことって意外と覚えてるんですよね。思い出すきっかけは、パっとしないものかもしれないけれども、その記憶は確かに大切に保管してあるんです。ひとりで、しんみりと、エモにひたりたいときに聞く曲です。
indigo la End / 夏夜のマジック

open.spotify.com

 

 

夏夜のマジックは「君の方が僕より夏が好きだったね」と夏好きな子でしたが、「夏がだめだったり セロリが好きだったりするのね」と夏嫌いな子の歌だってありますよ。このなんていうか、不器用っぽさもいい歌ですよね。

山崎まさよし / セロリ

open.spotify.com

 

 

そんな恋心が揺れる季節なのですから、夏のせいにしてしまいましょう。私としては、学生時代の気持ちはこんな感じでした。それくらいダメンズを投影している曲です。

クリープハイプ / ラブホテル

open.spotify.com

 

歌詞の語彙が心地よい声とで奏でる和のポップスといったら吉澤嘉代子。個人的に遠出をするなら夏かなと思います。深夜のサービスエリアってなんかいいよね。時間がちょっと止まったような感じもあるし、みな疲れているのがわかるからはしゃいでないし。なぞの心地よさがあります。

吉澤嘉代子 / サービスエリア

open.spotify.com

 

 

「SNSとしてVRChatを分析する」を読んで

 

思惟かねさんのnote(以下、本記事)を読み、
あらためてVRChatとSNSについて考えてみようと思います。

note.com

 

私たち本記事ではVRChatを既存のSNSと比較しています。LINE、X(Twitter)、Instagram、Tik TokのSNSを利用目的・グローバル/ローカルで要素分解し、これをニーズをもとにフレームワークを使って比較と分析、VRChatはどうか考察をしています。非常に面白かったです。

本記事はマジョリティの一般層とくにZ世代をターゲットに新規開拓をテーマにしていました。それに対して、私自身は原住民ですので、原住民の肌感覚を書き記していこうかなと思います。

 

原住民のボリュームゾーンは20代~30代だと思いますのでZ世代よりも少し上の世代となるでしょう。私たちのSNS感覚は、思春期のころに個人ページやブログを経て、ガラケーの時代にmixi、モバゲー、gleeなどで芽生え、前略プロフィール黒歴史になり、震災後スマホが普及し大学生や社会人になってLINEやTwitterFacebookを使って友人とコミュニケーションをとることで成熟し、平成が終わるころから知らない人とマッチングアプリであって、知ってる人とは今でもLINEで連絡とり続ける、Instagramに関しては電話の代替にも応用している。そんな感覚が共有できるでしょう(平成が終わるころから――を共有できない人もいるかもしれません)。

 

本記事はSNSの利用目的を「情報収集」「娯楽」「交流」「発信」の4つに分けています。私の場合はそもそもこの利用目的というのが曖昧と感じます。結果的にその4つに集約されているということはもちろんあるのですが、SNSを利用しようと試みる動機は別のところにあるかと思うのです。というのもなんとなく「つながっている」という意識が欲しくてやっているところがあります。そういう意味ではローカルな交流に当てはまるのかもしれません。ですがそれとはちょっとニュアンスが違うかなとも思うのです。

 

TwitterFacebookInstagram、Tik Tokは機能として「発信」がメインでしょう(こちらのグループを投稿型SNSとします)。発信というフォーマットが先にあって、その他の目的やグローバル/ローカルの差が後から生まれるのでしょう。例えばつぶやきをみた人が面白いと思えば娯楽になります。例えば鍵垢を使えばローカルなものにできるし、そうでなければ、RTなどすればもっとグローバルなものになります。

 

一方でLINEは「交流」の機能がメインになると思います。本記事にもありますがDiscordなどの通話アプリもこれにあたるでしょう(こちらのグループを通話型SNSとします)。LINEは本記事に書かれている通り複垢が難しく、電話番号の役割を担っているとてもローカルなものです。対してDiscordなどは比較してグローバルなものともいえるでしょう。

 

どちらも「つながっている」感があります。通話型SNSは会話によって自己をそのままぶつけてコミュニケーションしているので、わかりやすく「つながっている」感があります。投稿型SNSは投稿に対しての反応はもちろん、堆積した投稿が自己を形成するように思え、それをみた他者が反応してくれるところに「つながっている」感があります。そういった「つながっている」感の取得が先行して、娯楽や交流などの目的に続くのかなと思います。

とくにわれわれ世代がSNSを利用している感覚があるのは後者、投稿型のほうではないでしょうか。

そしておそらく、ローカルな交流をしているんだなと俯瞰してわかり合える感覚、これが「つながっている」感なのではないでしょうか。

 

まとめると、SNS利用の動機は「つながっている」感であって、SNS利用の目的はローカル(一部グローバル)な「発信」と「交流」になるのでしょう。

本記事の言葉を使うのであれば、①親しい友人との交流(ローカル)の重視と③ローカルでの気軽な発信による交流の活発化にあてはまるのではないでしょうか。

 

対して「情報収集」や「娯楽」は別のプラットフォーム、ニュースサイトやYouTubeNetflixを使うことが多いのではないでしょうか。

もちろん、Z世代でいう情報が流れてくるという感覚もわかります。なぜなら、マスメディアの公式アカウントがSNSにあってそれをフォローしたり、RTでまわってきたりしたら自分のTLに流入するからです。でもわれわれの世代がSNSをやっている肌感覚としてはこれは当てはまらないのかなあと思うのです。

 

 

 

さて、私はVRChatをどのような肌感覚で使っているでしょうか。

 

これは本記事でも指摘されていることですが、VRChatはSNSとしての不十分さがあるのです。そして他のSNSによって補完されている面が多いのです。

例えば、イベントの画像や感想をX(Twitter)に投稿することが多いでしょう。これはVRChatの機能だけでそういった感想の共有、グローバルな発信ができないからです。本記事の言葉でいうところの⑤機能別での複数SNS併用はすでに原住民が十分にしているのです(本記事ではシームレスな移行ができないことを指摘しています)。

 

逆に、この不十分な機能が仮想世界という感覚を作っているのだろうと思います。現実世界だって人と人が会って話をするだけしか機能はありませんからそれと似たようなもので。現実世界で今日あったことを発信するSNSと、VRChatで今日あったことを発信するSNSが同系統である、こういったことが結果的にではありますが仮想世界っぽさを演出しているのではないでしょうか。

現実世界では、LINEで予定を決めて、写真を撮ってInstagramにアップする。
VRChatでは、Discordで予定を決めて、写真を撮ってX(Twitter)にアップする。
こういった対比があるので、現実世界の対になる概念として仮想世界だと認識することができるのでしょう。

 

これがたしかにSNSなんだけれども、既存のSNSと違うよなあという感覚ではないでしょうか。

 

 

 

また、本記事④効率重視・受動的な利用傾向について。
タイムパフォーマンスといわれ、時間を貨幣として消費活動をしているのはわれわれも同じだと思います。そのため逆説的にVRChatに特別性がうまれるのではないでしょうか。
例えば、いつも節約している人が給料日に贅沢なディナーを食べるなんてことがあるでしょう。お金をケチっている人が贅沢だなと楽しみを求めることは、お金をケチらないことなのです。

つまり、タイムパフォーマンスを気にしている人が贅沢だなと思うのは、時間を気にしない、タイパが悪いところに身を置くことなのです。
家で倍速で映画がみれる社会において、映画館にわざわざ行き、等速で映画をみるのは、贅沢だからでしょう。

こういった贅沢性、「ホンモノ」感、オーセンティシティ(authenticity)がVRChatにはあるのではないでしょうか。

 

現実世界では、新しいSNSであるBeRealなどがそれにあたるのではないでしょうか。

 

 

 

Z世代の新規開拓は本記事の著者にまかせるとして。われわれ原住民がVRChatを利用している肌感覚として。
生やコミュニケーションなどさまざま現実世界では享受することが難しかった物事に対して、オーセンティシティのあるものとして経験することができ、かつそれを通話型SNSを通して企画したり投稿型SNSを通して感想を言ったり、現実世界と同様のフォーマットを用いて二次的に消費し「つながっている」感を得ている、そんな肌感覚なのではないでしょうか。

Z世代には学校というつながりがありますが、それを卒業した大人たちがそれでも人とつながっていたいときにVRChatを使っているのが私の感覚だと思います。

 

何者かになりたい

私は「何者かになりたい」という欲求を肯定します。
そもそもこの欲求は文字通りの意味を超えた複雑なものだと思っています。ですので、これらに関してのいくつかの批判はベクトルが異なるものだと感じます。悩める人はそのような意見に負けず欲を求めてほしいです。

 

だって、素直に、正直に、何者かになりたいじゃないですか。
そんな青臭くもエネルギッシュな感情を、誰の言葉を借りたのか元をたどれないほど擦られた定型文で説教されても、解消するどころか反発してしまいますよ。
先にも書いた通り何か視点がズレている気がするんです。(これは誰が悪いだとか言うことではありませんよ。)

 

おそらく「何者かになりたい」といったときに、その内容は次の①②の属性に分けられるのではないでしょうか。

 ①独立、じぶんで選ぶ、他者とは異なる
 ②共感、選択肢は既存、他者と大部分は同じ

②で悩んでいるのに①であろうと言われたら、それは意見が食い違います。

 

 

例えば「じぶん探し」などがこれにあたるのではないでしょうか。
生命体レベルで個であり、家族の一員であり、過去を追ってじぶんに対するルーツを再認識するような行い。そうやって自己を説明するさまざまなことを認識しなおして、自己を再構築する、そういった「じぶん探し」の途中にあたるのが、①の意味での「何者かになりたい」なのではないでしょうか。

 

ポジティブな言葉で言い換えると、将来の夢をもつというのも「何者かになりたい」でしょう。
ちょっと現実的に考えると、社会人になることは、家庭環境という依存からの独立。「上京」というのも、田舎という環境からの独立です。
さまざまな選択肢の中から自分が好んだものを選択します。他者と異なることを強調し、ほかの何でもないじぶんという感覚を得ているのでしょう。ファッションや趣味はその具体例といっていいでしょう。

 

斜に構えたサブカルという個性をもって、自己の説明文を強固なものにしていくのです。自分で選び、他者と異なるものであればあるほど、個性が強調されます。

 

 

私たちは常に個人でいるわけではありません。とくに現代社会はSNSによる常時接続で「内輪」が存在するわけです。この内輪という世間のなかでじぶんの役割はなんなのだろうと考えるのが②の意味での「何者かになりたい」ではないでしょうか。

 

世間という集団がやっかいで、そのグループに認められなければ、共感されなければ評価されないのです。
ですから「そういう奴いるよね」「俺たちキャラ濃すぎ笑」という、本来の意味での個性ではなく、あるある濃度の濃い概念をロールプレイをして共感を得る必要があるのです。ここで、本来の意味の個性、つまり①を発揮してしまうと、そもそも共感されずにノリの悪い奴として集団から排斥されます。それでは集団から評価されるという前提条件が満たせません。

したがって、演じられる役割はある程度共有されているキャラクターであり、選択肢は既存なのです。
また、そもそも集団に入る時点である程度共通点をもっている必要があるのです。

 

斜に構えたオタクといっても、オタク集団であることに変わりはないのです。その中で、斜に構えているという役割を担っているのです。

 

仲間内での立場、という感覚でしたら、小さい悩みかもしれません。

ですが、SNS常時接続の社会では、家族、高校の友達、大学の友達、ネットの友達、職場の人たち、さまざまな集団にまで広がっていき、「何者かになりたい」と悩むのではないでしょうか。

 

 

 

たとえばクリエイティブなことがすぐ実現できるような環境にいれば、そのクリエイティビティが「何者かになっている度」という、感覚的ではありますが、数値化してしまっていて「ああ、あのひとは何者かになれてていいなあ」と羨むのです。

 

そんな②のことで悩んでいるのにもかかわらず、「君はかけがえのない個人だよ」と①と声をかけても、なかなかひっかかりが解消しないのです。

 

 

また、②の意味で「何者かになりたい」欲があるときは、土台が不安定な場合もあります。つまり逆に言えば、集団への帰属意識を満たしたときに、何者かになった気がするのです。

おもしろいことに、差異を求めるのではなく、共感を求めていたということになる場合もあるのです。

 

 

今欲しいものは、自分が今までやってきたことが自分をつくるだとか、ただいるだけで価値があるだとか、そういったことではなくって、
内輪ノリの楽しさを帰属として昇華して、なおかつ確かにその中で役割を与えられ/見つけて行うという充実感なのです。

映画「バービー」を観た

映画「バービー」の感想です。
以下ネタバレ含みます。

 





 

感想としては、個人的にみてよかった作品の部類には入るのですが、違和感もある映画でした。

 

 

テーマのはなし

メインテーマはフェミニズムの基礎的な部分であると受け取りました。大衆映画ですから、最先端の思想を落とし込むのは現実的ではありませんからね。ただ、基礎的といっても社会派の内容を大衆向けのコメディとして形にしたことは意味があると思います。むしろ、そういった形として製作されているので、フェミニズムを知らない人向けなのかもしれません。

 

女性社会のバービーランドや男性社会のケンダムは、ミサンドリストや男性一般に対しての風刺と捉えています。男性社会のケンダムが男性一般の思想への風刺というのはわかりやすいと思います。

一方で、バービーランドに違和感はないでしょうか。めちゃくちゃありますよね。そんな世界もおかしいだろうと、ラスト近くのシーンでは男性も立場を上げようと描かれています。女性のみの世界からの改善という意味でミサンドリストへの風刺が描かれているのではないでしょうか。

 

ラスト近くのシーンでいうと、これからケンと恋愛関係になるだろうという未来を否定します。女性は恋愛が好きなんだろう? という古典的な思想へのアンチです。さらにケンも十分であることを表明しており、男女どちらも、恋愛がライフステージの中心にあるというようなロマンティックラブ・イデオロギーを否定します。

 

ケンは自分には何もないと言います。バービーは、ケンはありのままのケンでいいと伝えます。これはバービー人形の生みの親、ルース・ハンドラーから言われたことに影響を受けたものでしょう。

 

つまり、フェミニズムの基礎というテーマの延長線上にネオリベというサブテーマがあり、それを描いている映画なのです。

 

私自身は、このフェーズはもう終わっていたのかと思っていました。ですが、映画「バービー」へのコメントを見るに、なかなかそうでもないことを痛感しました。

 

 

自己受容

バービーは人形から人間になろうと決断します。死について考えたり、セルライトがあったり。そういった形も中身の完ぺきなひとなどいないが、自身を受け入れ、それでも生きようと進む姿が素敵でした。

ラストシーンは生殖器がなかったということになっているバービーが、婦人科を訪れたことで、生身の人間になったと受け取りました。

 

自己責任論的な側面のあるネオリベな現代では、完ぺきではない自身を受け入れて素敵だと思える能力が必要とされています。悩める者への処方箋として、男女問わずに受け取れるメッセージなのでしょう。

 

 

弱者男性、インセル

この映画には弱者男性やインセルという表現はありません。ただケンが弱者男性ぽいといえばそうなのかもしれません。資格もなにもなく、ただ男であることしか自分を説明するものがない。現実社会に来て、男というものは誇ってもいいものなんだと勘違いしてしまう。

これは現実社会で、強者男性がいることで十分にふるまえなかった男性性を、女性に対して振りかざしている弱者男性像と重なるのではないでしょうか。

また、非モテの弱者男性は恋愛至上主義的な劣等感があり、恋愛が成就することですべてがうまくいくかのような幻想をときに抱いているのですが、ケンも同様の発言をしていたかと思います。

 

 

商品としての女性性

作中、娘のサーシャのセリフ「あんたは間違った価値観の象徴よ。資本主義の性的対象化、ありえない理想的体系……。あんたはフェミニズムを何年も退行させた。資本主義を美化して女性たちの士気を低下させて。あんたなんかとっくに忘れてたわ。ファシストめ」

つまりは花屋の多様性です。花屋に並んでいる時点でスクリーニングされたもので、そういった美的な「個性的」なものをもって多様性をうたうのです。その美的かどうかは性的であるかで振り分けられ、なおかつ商品として消費されているのです。

そういった、性的価値を肯定する存在にもなっていたというのです。

 

日本でもグラビアやオタクコンテンツによって性的消費がされています。
なるほど、二次元だからいいじゃないか、という意見はあるとは思います。ですが、非実在なバービー人形をファシストと呼ぶように、二次元のオタクコンテンツにも暴力性があるのではないでしょうか。

 

 

 

フェミニズムは女性の権力向上によって女尊男卑を目標にしていると誤解している人に対して、バービーランドの変化をもってその誤りを指摘。そうではなく、個人が自由に生きられるそういう理想を描き、現実的な男性性の支配と女性の生きづらさをコメディとして演出。その自由さのために、自分は完ぺきではないけれどもそれを受け入れることの大切さ。それは他人から・恋人からの肯定ではないということ。そんな苦しいのに美しい人間になることを選択し。他人から押し付けられていた女性性を、否定しつつ、拒絶はしない。かなりポジティブに締めくくられたと感じました。

 

 

腑に落ちない点もあります。権力のある男性がコメディとして、可愛げのある存在としてしか描かれてないことです。ケンは弱者男性っぽく、マテル社CEOは少しおちゃらけた言動をする人と描かれています。

 

もっと世の中ギラギラした、いかにもな男性(この映画を批判するような、でもいいですが)がいるじゃないですか。それに対してのアンチが少ないような気がします。

 

気弱なオタクくんがイキって出してしまう不慣れな男性性は批判するけれども、もっとマッチョで頑固なオヤジの汚い目線は批判しきってない。というか、前者を笑いものにすることで、マジョリティな男性には忖度しているようにも感じます。

 

それだと映画的に売れないということだったり、そういったマッチョな男性やそういった男女の構図を受け入れている女性にまで客層を広げたからでしょうか。

 

 

 

一部違和感はありますが、フェミニズムの基礎的な内容をコメディとして作り上げたことは素晴らしいと思います。また、こういった内容の映画だと、観た人同士で感想を言い合うのも楽しいものです。

ぜひ感想を言い合いましょう!

 

 

話し上手になりたい

この記事は前回スペースで話した内容をまとめたものです。

 

 

話し上手になりたい。

 

話、会話といっても、何種類かあると思います。ここでは大きく2種類にわけてみようと思います。ひとつ目は多人数での会話、もうひとつは1対1での会話。この2種類だけでも、だいぶ印象は違うかなと思います。

 

 

 

多人数での会話はカラオケに例えられると思います。発言をしている人が、マイクを持っている人、それ以外の人が歌を聞いている人にあてはめることができます。歌詞の内容、つまり話の内容を聞いている人もいれば、雰囲気だけ聞いている人もいます。

ある程度歌ったら(発言したら)次の人へ渡す。こういった会話は、なんとなく楽しいという雰囲気を共有するのに向いています。つまり、一体感をもとめて会話をしているのです。会話の内容というよりも、会話を続けるという状態の継続にその本質があるのです。

だから、雰囲気、ノリ、といったものをもとめているので、悪い言葉を使うと同調圧力がかかるので、それぞれの個性を発揮しにくいといったデメリットがあります。

そんな同調圧力がかかったなかでも発揮できるのは「キャラ」といった個性とは別の属性ではないでしょうか。いじられキャラ、毒舌キャラ、天然キャラ、そういった空気の読みあいの中で形成された、造られたパーソナリティであれば、いやむしろ同調圧力によって形成されたパーソナリティであるからこそ、こういった会話で個性のようなものを発揮できるのではないでしょうか。

われわれはこの「キャラ」を確認しあうことで、会話の継続を行っているのです。意味のない会話と一言にいっても、会話を続けるためにお互いのキャラとしての特徴を言い合ったりして、安心感を得られる、という意味で有意義な会話なのです。

多人数で話すとき、バラエティー番組のひな壇芸人のようなボケをして、司会者のようなツッコミをすることでコミュニケーションをとっていませんか? 飲酒して暴れる・下ネタをいう、それに対して介抱する・下ネタやめろなどという・さらに下ネタを重ねる、どうでしょう、身に覚えはありませんか?

「会話しているという状態の継続」が本質なので、ボケとツッコミのような予定調和な結果に安心感を得られるのです。逆に、悩み事だとか、誰もついていけないギャグだとかは「しらけ」を生み、場の空気を乱すのです。マジなことは誰も求めていないのです。ネットミームを発音し、ときには適度に言葉遊びをし、わかっていながらズレた答えを言い、ツッコミを誘い、発言権を相手に譲渡するのです。

 

 

 

少人数での会話もカラオケなのですが、こちらは雰囲気というよりも話の中身に重心が置かれると思います。

多人数での会話では、雰囲気重視であったり、話たい人が競争しあったり、譲渡し合ったりします。しかし、少人数、とくに1対1では会話の主導権は片方に傾くことが少なくありません。

つまり、「話しすぎる人」です。

この「話しすぎる人」は、自分ばかり発言しすぎてしまう「おしゃべりさん」と、自分のことばかり話してしまう「構ってちゃん」の2種類にわけられると思います。

「おしゃべり」さんは、カラオケでいうとマイクを渡さずに自分ばかり歌ってしまう人。「構ってちゃん」は相手に発言権は渡すのですが、トークテーマが自分の内容・お悩みばかりの人。

キャバクラなどの接待は「おしゃべりさん」を気持ちよくさせるためのものです。

よく「話し上手は聞き上手」という説をみますが、私はなんとも納得できていません。それって、自分ばかり話す人「おしゃべりさん」の存在を受け入れることにもなるからです。聞き上手になろう、と決心した側が損をくらうのはいかがなものかなと思うのです。自然の会話はキャバクラではないのです。

 

一方、相談というのはその構造的に片方が「構ってちゃん」にならざるを得ません。

そもそも、深い会話をする場合というのは、会話を通じて、相手の「キャラ」ではないパーソナリティを知りたい、自分のパーソナリティを知って欲しいわけですからトークテーマは自分・もしくは相手に関わることに偏ってしまうのは仕方ありません。

ですので、相談などの深い会話ではない場面を考えてみたいと思います。
不意に1対1になったときに、どうやって場をつなぐか、と考えるといいかもしれませんね。

 

 

 

じゃあ、どうすれば話が上手になれるのか、というところにもどってくるのですが。

自分ばかり発言せず、自分のことばかりテーマにせず、そして聞く側にも回り続けない。となると、けっこうしんどいですね。

ここで、解決策のひとつになるかもしれないものを本でみつけました。桃山商事の『生き抜くための恋愛相談』という本に書いてあったのですが、自分と相手だけではなく相手の関心事、趣味、コンテンツ、仕事など、パーソナリティ以外の部分の話をする、そういった無機物の第3者をテーマにすることで、自分のことばかり話すといったことから回避できるというのです。また、自分も相手も発言しやすくなり、一方的な立場にはなりにくいのです。そして、その会話を続けるなかで、相手の輪郭を知ることができると思います。

 

よく、会話を続けるためには相手を好きになれ、興味をもてとかいう説明を受けることがあると思います。ですが言葉そのままの意味ではなく、(相手はどうでもいいけれど)相手が興味をもっているコンテンツに興味をもつ、もしくは、これなら興味もてそうだなってものを見つけることを指しているのではないでしょうか。それこそ、会話術の王道、自分と相手の共通点を見つけるといった作業はこれに該当しますね。例えば、目玉焼きに何をかける? だとかそういった中身のない会話でもいいと思います。

 

 

 

さて、中身のある会話、つまり深い会話はお悩み相談の意味をもっているため「構ってちゃん」にならざるを得ないのでした。(それは悪いことではありません)

 

一方、中身のない会話は2つにわけられ、
すでに定められた「キャラ」という共通の設定やネットミームなどの共通言語で同質であることを確認し合うのが多人数での中身のない会話。対して、今はない共通点を探していくために行うのが1対1での中身のない会話でした。

 

おそらく話し上手な人は、「5人以上いるから、場のノリにあわせた中身のない会話をしよう」「3人だけど初対面だから共通点をさがすために中身のない会話をしよう」「なにやら不機嫌だから、聞きに徹して、気持ちを静めてやろう」といったギアチェンジがなめらかに行える人のことを指すのではないでしょうか。

 

 

 

私はなかなかできずに、「構ってちゃん」になったり、聞きに徹したり、もしくは話過ぎてしまうことがあります。気付いたときには、わって話しかけたり、相手にパスするようにしています。自然の会話はキャバクラではないので、相手ばかり気持ちよくさせず、自分ばかり気持ちよくならないよう、気を付けていきたいです。

 

 

 

「いき」と「コケットリー」

最近は九鬼周造の思想にめっぽうはまっています。そのひとつに「いき」というものがあります。

 

 

 

 

ここでいう「いき」とは、恋愛でいうと、気になる相手に近づきつつ、距離を保つような態度のこと。

 

「いき」は「媚態」「意気地」「諦め」の3つによって形作られます。

 

「媚態」とは、相手に近づき相手を自分のものとしてしまう態度。
ここでいう、相手を自分のものとすることそのもの、相手と自分を同一とすることを合同ともいいます。
俗な言葉でいえば、下心でしょうか。例えば、ナンパしてお持ち帰りしたいためにとるアプローチが媚態なのです。

 

「意気地」とは、相手との距離をとろうとする態度。自己を保つ強さ。
恋をすると、相手は私のことをどう想っているのだろうか、と意識してしまいます。それは、どうしたら相手に好かれるだろうか、と相手に従属し自己を失っている状態です。そうならない自己の強さ、武士道的な精神を意気地といいます。
メンヘラ状態では、私はこんなに想っているのに、こんなに尽くしているのに、あなたはなんで素っ気ない態度なのと、意気地が弱くなってしまいますね。

 

「諦め」とは、よい距離感を保とうとする態度。他者の尊重。
たとえ合同したとしてもそれが永遠に続くわけではない、合同したら一発逆転できるわけではない。自身の抑圧を恋愛が叶うことで払拭できるという独断な仮説、執着を諦めることです。

 

相手との合同を図りたいという媚態をベースに
・相手の言いなりにはならないと自己を守る意気地
・相手は自身の言いなりにはならないとわりきる諦め
この2つがあわさって「いき」が生まれるというのです。

同一視してしまうような、自分とともに時を過ごしてほしいような、そんな素敵な人でも。ある点から見たら重なり合っているかもしれないけれど、違うレイヤーで、ベン図ならはみ出ている部分もあって、自身とは完全に同じ存在とはならない。逆に自己を失って相手と完全に同じ存在となることもいけない。
そういった他者と自己の距離が保たれた状態で、なお合同を図りたいと思うことが「いき」なのです。

 

 

 

似たようなものに「コケットリー」という言葉があります。宮野はジンメルの言葉を用いつつ以下のように説明してます。

「イエスとノーの不安定な遊戯、承認の回り道であるかもしれない拒絶と、その後ろに、背景として、可能性として、威嚇として、取り消しが立っている承認を見せ」一直線に合同に向かうことなく、合同の可能性を示しつつ、駆け引きを行うことである。(Culture, energy and life ,2017)

多くの恋愛漫画にみられる、くっつくかくっつかないかの曖昧な関係をいうといっても過言ではないでしょう。はやく付き合っちまえよと思うやつです。こういった行いは、選択を引き延ばしし、手に入りにくい存在として自分を高価値にするのです。価値が高すぎると逃げてしまう可能性があるので、これは一種の賭けです。

例えば、素敵な人と付き合いたい気持ちがあって、相手がその気持ちに気が付いている「好きバレ」のとき。あえて気があるそぶりをされたり、○○してくれるんならいいよ、と有利な条件と引き換えにされたり、そこまで直接でなくとも「わざとだよ」と言ってみせたり、そういった焦らされがコケットリーなのです。

 

 

どちらも合同を願いながら、その可能性を提示させながら、一直線にそれをもとめないといった点で同じです。


コケットリーの特徴は、直接的に身体を強調させて相手を誘惑します。一方で「いき」な態度では、合同の事後を想起させるようなものであるといいます。

より熱い合同をもとめ、同一へ未来へ向かうコケットリー。
合同という無心な営みがあった後に互いを尊重できるような、過去へ向かう「いき」。

 

真剣で激しいものこそ価値の高いものこそよいという態度は、ひとつの形かもしれません。ただ、自由な世界はそれで苦しいのです。自己の欲望に忠実になるという媚態は肯定しますが、同一視しすぎて逆にとりこまれたり、相手を邪険にあつかったりすることから避ける、あえての制限を付ける強さも必要なのではないでしょうか。

私はしばしば他者の尊重を忘れて暴力的態度をとってしまうことに反省をしています。他者を下げ、自己の価値を相対的に上げてあたかも肯定しているような感覚を得たく、スポーツや勝負といったルールのうえでの戦いにとどまらず、自慢や知ったかぶりなど、何気なくマウントをとってしまいます。会話で言うと、一方的に話すといったことをするのはもちろん、聞きに徹するという行為も一種の取り込みです(話を聞いてやっているという態度が)。自己中心的に行ってしまうのです。

もちろんこういった行動を互いにし合うことでも、相和はゼロに近い関係を築けるかもしれません。

ですが、互いに尊重し合い、適度な距離間で、その距離感の存続を目的に、「いき」な刹那を楽しみたいとも思います。