さまざま心理テストをしてマイペースといわれ
病んでいるときに 自分を大切に といわれ
そんなのわかっているのに、いままで自分を大切にして生きてきたつもりなのに、何もできない自分がとても嫌いです。
…………
ユリイカの5月号を買いました。
私は女性のラップをよく聞きます。
とくに泉まくらにハマっており、なかでもbabyという曲の歌詞が大好きです。
アノ子と私の違いなんて
飽きるくらい比べてきたのに
私がいつでも足りないのに
『自分を好きになろう』なんて
雑誌の見出しに心乱してる
この歌詞に何度も わかる と言い続けてきました。
babyは不安感でヘラっている歌詞なのに、キュートなリズムでずっと聞いていられる不思議な魅力があります。
ヘラっているときに、よく『自分を好きになろう』『自己肯定しよう』なんて言われます。
それは話を聞いてくれる人だったり、自己啓発本だったり、ふとググってでてきたまとめサイトだったり。さまざまです。
私だってそれはわかっているのです。
でもなかなかできないのです。
だからヘラっているのです。
子どものころから「自己中」とか「わがまま」とか言われてきているのに、
この年になって「自分大好き」を突き通せなくなってしまっています。
いいえ。言葉の使い方が変わったのかもしれませんね。
あのころ使っていたのは「自分勝手」という意味で「自分が好き」といっていました。
しかし、今「自分が嫌い」というと、自分勝手にできないという癇癪ではありません。
他人と比較して自分が劣っている、babyの歌詞でいう「私がいつでも足りない」のです。それをもって、価値がないから嫌いと表現しているのです。
つまり、自分はなんてダメなんだろうとその存在を認めたくないという気持ちです。
この気持ちは抑圧で、ホントはありのままの自分を認めてほしいという気持ちの裏返しなんだと思います。
それでも、他人より上に居たいから、真実を知っていると主張するのです。
私は価値が低い という真実は私だけがわかるもの。あなたにはわからないでしょ? とマウントをとるのです。だから 自分が嫌い ということを主張してヘラるのです。ほんとは認めてほしいのに、です。
自分も他人もある程度デフォルメされた情報で比較します。
「アノ子と私の違い」を比べているときの私はデフォルメされたキャラとしての自分だと思います。
「私がいつでも足りない」ことが真実であるという前提のもと、バイアスのかかった比較をしているのですね。
そしてキャラを認めてくれる人がいたとしても、ありのままの私ではなく、作り上げたキャラを認められているので なんか違うな となってしまうのです。
私はひとつの防衛としてこういった思考をしていると思います。
逆に言えば、尊厳の傷つかないような安心した場に居ることができれば、防衛が働かなくてすむ。自分を嫌いにならないのではないでしょうか。
そのためにできること、2つあると思います。
①発言力のカルトから脱する
言葉や態度、発言力の大きな人が「実は○○さんの△△なところが嫌いなんだよね」と打ち明けてきたりします。
私はそういったとき、これからの人生タスクに 自分が嫌われないように△△しないように気を付ける という新たな項目が追加されます。
発言した本人は、ちょっと悪いことを共有して仲良くなりたいとか、ただの愚痴だとかで、そこまで本気で悩んでいることではなかったりするのですが……。
その人がみんなから慕われたりしていればするほど、気になってしまいます。
その委縮から脱するようにしたいのです。
ちょっと思いついたことを書いていきたいと思います。以下は自分への言いつけです。
まず、人の悪口を言ってマウントをとることによって安定な自己肯定感を得ているような人をリスペクトしないようにしましょう。その人は加害者です。
みかけ上、マウントがとれているためそういった 上位 の人に他人が集まって慕われているように見えますが、まやかしです。
悪口を言われないよう、その人の見える範囲に居たり、まやかしに気づいてない人が集まっているだけです。
また、負の感情をともなう言いにくい言葉を共有することで、そういったことを言い合える関係だと、急接近してくるような錯覚を与えているだけで、どんな人にも言っているのです。
こういった教祖的な人に構ってしまうと、カルトのように、その考え方がスタンダードだと思い込んでしまいます。
私のような 自分が嫌い な人と 他人が嫌い な教祖とでは考え方が異なるのです。
発言力のカルトから抜け出しましょう。
②お茶をする
自分が嫌い と思っているときは、 嫌いなところ寄せ集めキャラ を演じています。
それを否定されても肯定されても、ありのままの自分とは違うため なんか違う となってしまうのです。
逆に言えば、ありのままに近いキャラを演じられるような、安心できて尊厳を保てる場があれば、自分を嫌いにならないはずです。
そういった場は、家庭とか恋人関係に当たるのかもしれません。
どうすればそういった場を作れるのでしょうか。
演じるキャラを少しずつありのままの自分に補正するのがひとつの方法ではないでしょうか。
相手に「私」を知ってもらうのです。相手に知ってもらえれば、演じるキャラがありのままに近いものになると思います。
そのために、少し深いコミュニケーションをするのが一つの手段だと思います。
その実践が「お茶」です。親密な対人関係を育むための一つの方法として提唱します。
サシ飲みでもいいですが、ネガティブな情報や肉体関係に移行しやすいので「お茶」の方がいいと思います。あまり重い話ではないので気軽に誘いやすく、断りやすいのも優秀です。
また、お茶をするときに オールorナッシング思考 をしないように気を付けたいと思います。
オールorナッシング思考とは、
「お茶するような仲になったのだから、なんでも私のことを知ってほしい。
そうでなければ何も知らないでお茶もしないでほしい」というような思考です。全面的に承認されるか、全面的に拒絶されるかという思考ではないのです。
お茶はもっと軽いもので、だれとでもするものです。
ちょっとだけ仲良くなった人とでも、逆に信頼できる人とでも。それがサシ飲みとの区別だと思います。
例えば……
□ お茶の感想を言う
□ 好きな飲み物/食べ物の話をする
□ 好きな外食チェーン店の話をする
□ もし2人で行くなら(実際に行かなくても)どこのお店に行きたいか話し合う
□ 食べる以外に行くなら映画やゲームセンターなどどこにに行きたいか話し合う
など普通の会話でいいのです。
自分の履歴書のようなものを相手に知ってもらうわけではなく
最初は相手と同じものを共有していく想像をしたいと思います。
いきなりありのままの自分を出すのではなく
さまざまな会話の中から染み出る自分らしさを相手に感じ取ってもらって
脱力してコミュニケーションがとれる土壌をつくっていくのです。
パーソナルなことについては「それを言ってひかないかな?」と考えてみて
ひかなそうなくらい仲良くなってから話します。
私の年齢などパーソナルなものですので、仲良くなってから教えると思います。
くわえて、一緒に美味しい温かいものを飲むことが
心を落ち着かせ「美味しい」というプラセボに乗って、ポジティブな話題で盛り上がれると思います。
VRCはかなり深夜帯がゴールデンタイムですが、少し早い時間に
私と「お茶」してくれませんか?