撤退

「完璧主義ではいけない」というのは誰もがわかっていると思います。しかし、ある程度のクオリティをもとめることはやめられません。むしろ、資質が低い人なのだと思われるのが嫌です。そういった後ろ向きの理由から目標を高くもちすぎてしまいます。

さまざまなストレッサーはもとをたどれば高すぎる目標、その執着ゆえんなのかもしれません。いいえ、それはわかっているのに、その執着心をおさえられないのです。

 

こういうのを「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というのでしょう(中島 敦)。

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撤退

この年齢になってくるともう身体的成長がなく、老化する一方なんだなあと思うのです。というよりも、脳も身体も心もガタが来るというのが、嫌でもわかるようになったというのでしょうか笑

 
ああ、自分は秀才ではなかったんだなあ、と。最前線に行くような人は特別な人で、自分はどちらかというと真ん中より後ろ側だったんだなあ、と。受け入れざるを得ないのです。

 

 

受け入れるという作業はとても辛いです。

まず、認識すること。自己のキャパシティの低さを認める必要があります。

そして、低スペックさを補うために誰かの助力をもとめます。それができない場合は訂正や修正を繰り返してクオリティをあげます。

最後に、未熟な成果物を世に出したことや失敗したことによる羞恥心などの負の感情を忘却します。

 

 

先に述べた完璧主義思想がゆえに、受け入れることがなかなか難しかったのですが。衰えを自覚したのをきっかけに、だんだんとできるようになってきました。

 

 

認識、訂正、忘却。こうして社会人とか大人とか、ちゃんとした人だとか、そういったレースの最前線から撤退したのです。

 

 

これがラジオだったらCreepy Nutsのかつて天才だった俺たちへを流しているでしょう。

 

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再挑戦

いいこともあります。自分のキャパシティを見積もることができるようになったので、どれにどれほどのコストをかければよいかという概算がつくようになったのです。もちろん休息を考えて。

 

昔苦手だった読書や運動も、自分の限界がわかるわけで目標ややめどきがつけやすく、そういったものに再挑戦するのが楽しくなってきたのです。

 

VRでイベントキャストをするのも、自分のキャパシティを考えたうえで、スキルが上達していくのがみれて楽しいのです。

 

例えばスポーツも、部活動だとやらされている感や体育会系のノリがきつかったと思います。しかし、できない側であるという受容をした後は、それでも身体を動かしたり得点を決めたりすることが楽しくなると思うのです。

 

 

最近は、完璧を求めすぎないができるだけ目指すという文化、臨場感を共有するコンテンツに興味があります。

 

例えばRTAです。厳密に完璧を求めるならばTASには勝てないのですが、そうではなく人間として高みを目指すことに面白さがあります。またランキング上位だけに意味があるのではなく、ライブ配信をみることで一緒に盛り上がることができます。スポーツ観戦に近いのでしょう。応援したくなりますよね。

 

また、DJプレイも楽しいです。最近になって音楽を聴き始めたのですが、それでも選曲する楽しさ、一緒に盛り上がることのできる環境がいいです。未知のよい曲を知るきっかけにもなります。また、スキルという面でも成長をすることができます。

 

昔は陽キャの文化だと思っていたものが、できない側であると受容することによって、自分も楽しめるようになってきたのです。

 

衰退がゆえの自己受容は、そんな昔は苦手だった物事を見つめなおすきっかけに、むしろ変な色眼鏡を外してみるきっかけになりました。

 

 

乱文ですが、高校のころ、嫌いだった先生が勧めてきた曲で〆ようと思います。

 

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