バーチャルホモソーシャル 「結局、女の子同士のイチャつきが羨ましかったんじゃないの?」

 

『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』を読んでの感想です。

別冊NHK100分de名著 フェミニズム

 

 

バーチャルの中でもホモソーシャルを感じることはあるのではないでしょうか。
ホモソーシャルとは同性間の社会的な絆のことです。
男性のホモソーシャルというと、「男同士の絆」「友情」「舎弟関係」などといった言葉で想像することができるのではないでしょうか。ヤクザものとかそうですね。

 

男性のホモソーシャルについてはイヴ・コゾフスキー・セジウィックの研究が有名です。セジウィックは、男性のホモソーシャルレヴィ=ストロースのいう「女性の交換」によって形成されてきたといいます。

男たちが絆をゆるぎないものにするため。女性を交換可能な対象として、価値のある貨幣として使用することで、ホモソーシャルが成り立っていたというのです。女性を通して、男たちの絆は強固なものであると確かめ合っていたのでしょう。

 

しかしある時期以降、一夫一妻制の普及によって女性が交換可能な対象ではなくなりました。そのため、女性を通さずに、自分たちの絆を強固なものとして確かめなければなりません。

 

絆を強固なものとして確認し合う方法には、エロティシズムな性的なものがあります。それとは別に非性的なものもあります。

一夫一妻制、男女の婚姻(恋愛・結婚・出産の三位一体)が主流になると、それにつながらない男性同士の性的な絆は異端なものとされます。

ですから、男性のホモセクシュアルに嫌悪感を抱くことが社会制度的に「正しい」とされるのです。これがホモフォビア(同性愛嫌悪)ですね。

 

絆というものは、同質同士をつなげるものですから、ホモフォビアをもつ者同士に絆ができます。お前も苦手だよね、という男らしい絆が形成され合いますね。性的な意味ではなく好きだよね、と。このように非性的に絆を確認し合うのです。

上野千鶴子先生は、暫定的にですが「ホモソーシャル」を「同質社会的」と訳しており、「ホモソーシャリティ」は「異質排除のマッチョ志向」であると述べています。
(さまざま批判があるようですが、ここでは意味を限定せずにあやふやなまま用います。)

 

絆といっていますが、男性社会に階層・カーストがあるのもまた事実です。この階層は「男らしさ」が認められると上がる仕組みです。

例えば、マジョリティであることやモテというパワーゲームのトップにいることが「男らしい」のです。正しさや強さをイメージさせますね。

 

このパワーゲームに負けた者が弱者男性です。キモくて、金のない、おっさんが弱者とされるのはモテないことによって「男らしさ」のゲームに負けたからです。

もちろん「男らしさ」を作っているのは男性社会、男性のホモソーシャルで、もっというと上位の男性なのです。

しかし、弱者男性の怒りは直接上位の男性に向かわず、自分よりも立場が低い(とみなしている)女性に向かうのです。これがミソジニー(女性蔑視)です。「俺は女なんかとは違うぞ」と言うことで男らしさを主張しようとするのです。

 


いったんまとめましょう。

  • ホモソーシャルとは男同士の絆、絆は同質の間のつながり
  • 同質とはマジョリティや権力、そしてホモフォビア(同性愛嫌悪)など
  • 権力のない弱者男性はミソジニー(女性蔑視)で同質であることを主張

 


これらをバーチャルの世界に置き換えてみたいと思います。

 


バーチャルでの男性のホモソーシャル

われわれが「男の絆」を実感することは、VRSNSの世界でもあります。
男っぽい・体育会系っぽいノリと言い換えてもいいでしょう。

  • 下ネタをいう
  • ひな壇芸人のようなコミュニケーションをする(ボケとツッコミ)
  • お酒を飲みかわす、強要する
  • 煽る
  • マウンティング

こういうノリを共有することにより「男らしい」(「同質である」「マジョリティである」「正しい」「権力がある」)ことを相互に確認し合うのですね。

 

バーチャルでのホモフォビア

「男らしさ」のひとつにホモフォビアがありました。こちらはVRSNSでは薄れていると実感します。互いに撫で合ったりするスキンシップもみられますね。
その結果、お砂糖やjustといった文化ができていると思います。

お砂糖やjustまたはそれに類するものに対して「お気持ち」することも見受けられます。これは社会常識や規約といった正しさを盾にしたホモフォビアでなければ何なのでしょうか。

 

バーチャルでの弱者男性

VRSNS界で権力・カーストが何をもって作られているのかは、実際わかりませんが。実感としては「慕われている」人は上位であり「慕う人」は下位であるように感じます。
寂しくない人、寂しい人。Friend+でinstanceを開いたら、誰かが遊びに来る人、青ステータスのまま独りぼっちのままの人。


SNSがつながり合うツールである以上、慕われ度合、その接続件数が多い人が上位という部分はあるのではないでしょうか。

 

それでは、下位にいる弱者男性は何をしているのでしょう。独りインスタンスで咳の響きを感じているのでしょうか。

 

といっても、publicへ行くことやイベントに参加することで寂しさを紛らわすことができますね。そこで、さらに仮定なのですが。最低限度のつながりをもっているため、少し上位の欲、「つながりたい人とのつながり」があるかないかが強者弱者とさらに分けているのではないでしょうか。

 

つながりたい人とつながれない人は、ヘラったり、ここでもミソジニーにはしったりするのではないでしょうか。

それこそ、女性について「怖い」という男性をみかけませんか?

 


バーチャルホモソーシャル

VRSNSらしいホモソーシャルの特徴というのを考えてみます。

VRSNSでの権力は「慕ってほしい人から慕われる」ことだと思うと述べました。これにはグラデーションがあり、その認め方も多様だと思います。

例えば、朝の挨拶をしながら露出度の高い写真を投稿する文化があります。これは露出度の高いものがよいと思う人が同質を求めて行う行為だと考えられます。また、エロティシズムな欲求を、直接justという行為で解消しないで承認という形に昇華させた例ともいえます。

またこれは本当に個人的なものなのですが。雑談インスタンスで見る動画が、バラエティーYouTubeに偏っていると感じます。ボケとツッコミという、いじりいじられ、マウントをとるコミュニケーションを投影することによってホモソーシャルな欲望を解消しているのかもしれません。


VRSNSでは美少女アバターが多数を占めます。その結果、「男らしさ」から「降りる」という選択肢もできると思います。アバター・女声やボイスチェンジャーなどで女性的なコードを身にまとうことが可能なのです。「男性」という地位につかないという選択肢で、自ら貨幣として扱われることで、社会に参加するのです。

ここで、見かけ上、ギデンズのいう「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」に近いと感じてしまいます。自由に塑性できる性のため、「対等な人間同士による人格的絆の交流」という親密な関係性と錯覚してしまうのではないでしょうか。
(実際は選択したジェンダーのロールプレイのため、対等ではないように思えますが……。)


また、リアル社会では結婚することがまだまだ常識であり、むしろ義務のように感じます。
そのような中での「お砂糖」という関係は、結婚とは対極にある恋愛の純粋でプラトニックなものとして経験されるのではないでしょうか。
こういったロマンティック・ラブ(錯覚かもしれないけれども)が生まれやすいといった理由からも「慕ってほしい人から慕われる」ことが権力になりうるのではないでしょうか。

 


「男らしさ」から「降りる」という選択の結果、男性のホモソーシャルから解放され「女性のホモソーシャルを受け取る」という欲もあるのではないでしょうか。

しかし女性のホモソーシャルは社会制度に織り込まれてないため認識不可能なものといわれています(東,2006)。そういった枠組みがなければ育むことをスタートできません。
逆にいえば、ミサンドリー(男性蔑視)やホモフォビアがないとみえてしまうのではないでしょうか。

「男らしさ」から「降りる」ことを選択し、ミサンドリーホモフォビアもない社会を仮想するのではないでしょうか。

 

実際、そこには何も見えないのです。
私たちにできることは、思春期のときに男の子には許されなかった、女の子同士の距離感の近いスキンシップ、女の子同士のイチャつきをロールプレイすることではないでしょうか。


これが、「降りたい」からそういったロールプレイをするのか、あるいはそういったロールプレイを純粋にしたいから「降りた」ようにみえることにしたのかわかりません。

ですが、いまだつづく男性のホモソーシャルの影響力を考えると、やっぱり後者なのかもしれませんね。

 

“バーチャル” で “オタサーの姫” が “ヘラ” って “サークルクラッシュ”

あるところに地下室で毎日パンづくりにいそしむ二十六人の男たちがいた。これといった愉しみもなく、課された仕事を憎みながらも、ただ黙々と働いて日々がすぎていく。そんな労苦のなかで、一服の清涼剤だったのが、上の階で小間使いとして働く十六歳のターニャという少女の訪問。パンをもらいにくる彼女の太陽のような笑顔に癒される男たちは、全員でターニャへのプラトニックな愛を誓う。そんなおり、元兵士の優男が仕事仲間の新顔として彼らの前に現れる。女にモテることを鼻にかけた元兵士の態度に反発を覚えた二十六人は、その場の勢いで、そんなにいうならターニャを口説き落としてみよ、という賭けを提案してしまう。そして二週間後の雨の日、元兵士とターニャの穴倉での密会を目撃してしまった男たちは、上気した表情で穴倉から出てきたターニャを囲い込み、罵詈雑言をあびせかける。はじめはおびえて声も出なかったターニャは、誰かに上衣の袖をつかまれたのをきっかけに、「あーあ、あんたたちはみんな気の毒に、牢屋に入っているようなもんね! Oh, you miserable prisoners!」と言い放って、振り返りもせず颯爽と消えていく。もう二度と彼らの前に現れることはなかった。

荒木優太『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社,2023)(p3)
マクシム・ゴーリキー『二十六人の男と一人の少女』のあらすじ

 

 

オタサーの姫の概念はすでにありふれたものとして共有されていると思います。
むしろ、それをメタ的にみることでファッションとしてポジティブにネタとして消費しているとさえいえます。オタサーの姫を含めて病み系、メンヘラ系をイメージしたkawaiiキャラクターや衣装、音楽など生活に溶け込んでいるでしょう。もはやベタなキャラのひとつになっているのです。

 

一方で、同様の文脈で語られることの多い「サークルクラッシュ」についてはネガティブなものとして、未だネタにされたままだと思います。

 

私はVRSNSというバーチャルな世界を楽しむ一般人ですが、こういった場でも生活に溶け込んだオタサーの姫のような存在がゆえにサークルクラッシュすることがあるのか、興味があります。

 

例えば、先に引用したゴーリキーの小説も広義のサークルクラッシュだと思います。
どうでしょう。VRSNSを使っていて似たようなことを経験した人も居るのではないでしょうか。

 

今回のブログはオタサーの姫について記述された、ジャンヤー宇都 『オタサーの姫』(TOブックス,2015)を読んだ読書感想文になります。

 

オタサーの姫 ~オタク過密時代の植生学~



 

 

 

オタサーの姫

オタサーの姫』ではオタサーの姫をこう定義しています。

男性多数で、なおかつ外部から見たときに『オタク的』であるか、構成員が『オタク的』であることを自覚しているコミュニティに所属し、複数の男性から『ちやほやされる』女性(p25)

引用元では「オタサー」と「姫」の両方を定義しています。

 

この記事ではVRChatなどのVRSNSを想定していますので、「オタサー」の定義を、たんにサークルや共同体・集団としたいと思います。理由としては①VRChatユーザーはオタク的な人が多いから、②VRChatユーザーは男性多数であるから、③発行から8年ほど経ち既に一般化した用語のためオタサー以外の共同体でも起こりえるかもしれないから、の3つがあります。とにかくあやふやにしておきます。

 

「姫」を複数の男性から「ちやほやされる」女性としていますが、バーチャル上ではホモフォビア(同性愛嫌悪)が薄れるため、ここでは性別を限定しない複数のメンバーから「ちやほやされる」人、とします。

 

そのため、アラサーでも男性でも、オタサーの姫ムーブができると思います。(結果的にそういった姫ムーブをしてしまった、そうみられてしまったということも含みますが……)

 

まとめると、「(VRSNSの)集団内で、ある個人が複数の人からちやほやされていることが続いている状態」でしょうか。いっきにハードルが低くなった印象があります。

 

これがバーチャルの人間関係が不安定な要因だ! などと早合点はしません。
もう少し掘り下げていきたいです。

 

そうそう、オタサーの姫といえばどのような年齢の女の子を想像しますか? 10代後半から20代前半ですよね。これは女性のファッションに起因していると考えられます。

 

オタサーの姫』では「アニメイト」にいる女性オタクのファッションやオタサーの姫のファッションについてこう述べています。

「可愛いヒラヒラの服か、ゴシック・パンク系の服を、スッピン・くせ毛で着ている感じの人が多いですの。(後略)」(p31)

興味や美意識の対象が自分自身ではなく、外部の「カワイイ何か」に向かうような傾向がうかがえた。(p32)

「アクシーズの安いヒラヒラお洋服にコンバースのスニーカーをあわせちゃうような女のコが、まさに『オタサーの姫』なんです。(後略)』(p33)

と、オタサーの姫のファッションについて書きつつ

「常識的な服装を心がけて社会に出て働かないと、同人誌を買うどころか家賃が払えません」(杉浦由美子『オタク女子研究 婦女子思想体系(原書房)(p23))

日本語には「歳相応」というコワい言葉があるが、就職をひとつの転機として、オタク女・オタサーの姫たちのファッションも「一般女性」のものに収斂されていくのかもしれない。(p36)

とも述べています。

 

そのため、アラサー女性は就職を機にオタサーの姫をファッションとともに卒業していくと考えられるのです。

 

一方でバーチャルではそうはいきません、boothの人気衣装をみてみるとわかるのですが、「可愛いヒラヒラの服か、ゴシック・パンク系の服」ばかりなのです。そのため、アバターに実年齢相応のファッションを着せようとするとなかなかうまくいかず、アバターの見た目年齢に合ったファッションに近いものになることが多いのです。

 

仮にユーザーが歳相応でコンサバなファッションを好んでいても、そういった衣装は数が少ないのが現状です。そのなかでファッションを楽しむのならば、10代後半のファッションを着なおすという選択肢に落ち着くことが多いと想像します。

 

結果、「可愛いヒラヒラの服か、ゴシック・パンク系の服」を着るアラサー女性ユーザーが、男性ばかりのコミュニティに所属する、という現象を生んでしまっていると思うのです。

これはオタサーの姫になろうとしなくてもです。

 

また同じことが女性のみならず、というかこちらが本命なのですが、男性ユーザーでもおこりえます。

 

 

 

サークルクラッシュ

オタサーの姫と同様の文脈で語られる言葉にサークルクラッシュがあります。サークルクラッシュが起こるときに中心にいる人をサークルクラッシャーサークラと呼びオタサーの姫と比較します。また、『オタサーの姫』ではサークラを、無自覚サークラと自覚型サークラに分類し、そのほとんどが無自覚サークラだと述べています。

 

オタサーの姫

  • アイドルのような存在
  • 自己肯定感が強い

自分が変わらなくても、ありのままの姿で男のコたちにちやほやされるのが「オタサーの姫」です。だから、髪がボサボサだったり、服がダサかったりしてもいいんです。(p102)

自己肯定感の強い女のコは、ありのままで生きることができるから、「オタサーの姫」になれる(p103)

サークルクラッシャー

  • キャバ嬢のような存在
  • 自己肯定感が低い

サークラ」は、コミュニティの中で、好かれよう・愛されようと努力するんですよ。身なりを整えたり、話をじっくり聞いて、相手が望むような言葉をかけてあげたり。その結果として複数の男性から好意を寄せられるのがわたしのような「サークラ」なんです。(p102)

「無自覚サークラ」の類型では、自己肯定感の低い女性が好意を持たれようと努力する結果として、サークルクラッシュを引き起こしてしまっている(p103)

 

つまり、オタサーの姫サークラは別物であることが示されているのです。

冒頭のゴーリキーのあらすじで例えるならば、前半二十六人の男がプラトニックな恋愛感情を抱いていたターニャはまさにオタサーの姫と言えるでしょう。

 

オタサーの姫サークラは同様の文脈で使われると思います。この2つの共通点はといえば以下の点でしょうか。

  • 男性が圧倒的に多いコミュニティに所属
  • (オタク的・男性的な)コミュニティのノリがわかる
  • パーソナリティが女性的である
  • ちやほやされている

ここでこの4点があてはまるオタサーの姫サークラに未分化な人を「姫的な存在」と呼ぶこととします。

 

この4点、バーチャルの世界で行うのは容易いのです。

 

もともと男性ユーザーが多いバーチャルの世界では、そのコミュニティも同様であることは言わずもがな。イベントや趣味の集まりはその内容が、仲良しサークルではオタク的趣味が、そしてすべてでVRの技術やギミックが、話題となりそれを伴うノリとなります。

 

アバターは男性アバターよりも女性アバターが圧倒的に多く、ボイスチェンジャーの中には声を高く女性的にする機能のみをもったものもあるほどです。多くのユーザーが見た目と声は「kawaii女性的なもの」に収束されています。

 

そしてkawaiiものは良いものであるというイデオロギーがその根底にあるため、お互いに「可愛い」と言い合ったり撫で合ったりするコミュニケーションをとります。

 

また(そのイデオロギーがあるため)多くの男性ユーザーの好みを射るアバターに改変することで、よりkawaii存在になり多数のユーザーから「可愛い」と言われることもできます。

 

したがって、現在のVRSNSは意図的・非意図的に関わらず、オタサーの姫サークラが簡単に生まれてしまう土壌なのだといえると思います。

 

さて、サークラにはある特徴がありました。それが自己肯定感が低いということです。

自己肯定感が低い人は他人から肯定されることによって生きる意味を見出します。この他者から肯定してもらいたい気持ちが「認められたい」という承認欲求となるのだと思います。

 

例えば、顔が良いのであれば、男性が寄ってくる理由が(それだけではないでしょうが)わかります。そして美貌に自信をもっているのであれば、それを肯定して「ちやほや」されている現状を納得し、良いもの(もしくは悪いもの)と感じるでしょう。

 

しかし、自己肯定感が低く、自信のない人だったらどうでしょう。

バーチャルで(しかたなく)kawaiiファッションに身を包んだことによって、男性が寄ってきてしまうことがあるのです(たんにコミュニケーションの一環ではありますが結果的にそうみえるということも含みます)。そして自信をもっていないため、それを肯定できず(ホントの自分とは違うのにな……)「ちやほや」されている現状を理解しがたく、気味悪く思ってしまうのではないでしょうか。もしくは「姫にならないようにしないと」と気を付けて行動するのではないでしょうか。

しかしながら、自己肯定感が低いタイプは他人からの評価が気になるため八方美人になりやすく、嫌われないようキャバ嬢的コミュニケーションをしてしまう人が多そうです。結果、みんなに愛想を振りまいていると解釈され、無自覚サークラになってしまう、そんなことがあるかもしれません。

 

ここでいう自己肯定感の低さ自体はメンヘラと呼ばれる属性とも共通しているのではないでしょうか。
サークラがメンヘラであるとか、メンヘラがサークラであるとかではなく。サークラとメンヘラをベン図で書いたときに自己肯定感の低さという共通項があるのではないか、ということです。

 

 

 

メンヘラ

自己肯定感が低い人は、というより私は、よく精神的リストカットをしてヘラります。

ここで『オタサーの姫』のなかで「自己肯定感」、もしくは世間一般で同様の語として呼んでいるものはあまり明確なものではありません。心理学者の高垣雄一郎によると学術用語としては「自分が自分であって大丈夫という存在レベルの肯定」だそうですが。世の中での使われ方としては、自己評価や自信といった言葉の方が当てはまりそうです。

 

メンヘラが錯覚する「自己評価や自信が高い方が成功する(だからわたしはダメ)」という考え方ですが。成功哲学を語る立場の人間が自身の成功体験を基にした意見です。これは生存者バイアスで偏っています(そういった自信のある人にひっぱってもらいたいという影響はあるかもしれませんが)。

 

また「自己肯定感のない私はダメ」と優生思想ともいえる発想になってしまうのも危険です。自己肯定感が低いのではなく世間的な価値観による誘導によって評価が低いと思い込んでいるのでしょう。常識人にならなきゃ、ふつうの人にならなきゃと焦っているのです。

 

「ヘラ」るといわれる精神的リストカット、自己嫌悪・言葉での自傷行為はメンヘラにとっての捌け口です。

いわゆる「自己肯定感」が低い人は、自分自身について、あるいは自分が周囲からどう思われるかについて、いつも考え続けているのです。自信が低いために、唯一、自分にしかわからないことを叫ぶのです。
それが自分がどれだけダメな存在であるかなのです。

「自分がダメであることに関しては、誰よりも自信がある」のですから(斉藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』(p35))。

 

そうして過度の緊張や気分の追い込みから自分を守っているのではないのでしょうか。

そのヘラるほどの憂鬱さを人に相談できないでいるのです。
そこに助けてほしいという気持ちはもちろんあります。ですが八方美人がゆえに相談できないことがあるのです。

八方美人というよりは、他者からの評価を恐れているといいますか……。

 

以下、長いですが引用します。

だが、忘れないでほしいのだ。もしもある人の援助希求能力が乏しいとするならば、そこにはそうなるだけの理由がある。その人は、内心、助けを求める気持ちがありつつも、それによって偏見と恥辱的な扱いに曝され、コミュニティから排除され孤立するのを恐れてはいないだろうか。あるいは、成育歴上の逆境的体験のせいで、「世界は危険と悪意に満ちている」「自分には助けてもらうほどの価値はない」「楽になったり幸せになったりしてはいけない」と思い込んではいないだろうか。だとすれば、彼らは援助を求めない。こちらから手を差し伸べても、拒絶されるのは当然だ。それどころか、みずから助けを求めておきながら、突然、翻意して背を向けることさえあるだろう。

 

そもそも、誰かに助けを求めるという行為は無防備かつ危険であり、時に屈辱的だ。冒頭に述べた、死にたいくらいつらい現在(いま)を生き延びるために、自傷や過量服薬を行っている子どものことを考えてみるとよい。一見、彼らはカッターナイフや処方薬・市販薬に単に依存しているように思えるかもしれないが、実はそうではない。問題の本質は、カッターナイフや化学物質という「物」にのみ依存し、「人」に依存できないこと、より正確にいえば、安心して「人」に依存できないことにあるのだ。

松本俊彦『「助けて」が言えない――SOSを出さない人に支援者は何ができるか』(日本評論社,2019)

 

カーストという他人・世間の尺度しか「正解」ではなと誤認しているのです。だからマウントをとったり、逆にヘラったりするのです。

安心できる他者に自分が生きていいということを認めてもらいたいのですが、他人が安心できないのなら、物にすればいい。物は裏切らないから……。

 

引用中のコミュニティから排除、成育歴上の逆境的体験のせいで、「世界は危険と悪意に満ちている」「自分には助けてもらうほどの価値はない」「楽になったり幸せになったりしてはいけない」などの部分はスクールカーストの影響が十分にあるように感じます。

カーストはちょっとした失敗で一気に下がることがあります。(ただし上げていくのは至難の業です)

 

カースト下位的思考、劣等感、自分は劣っているという考え方でいうと「非モテ」もそれに似ています。

 

非モテ意識に悩むということは「メルヘンチックな恋愛をしたいという願望を断ち切られ、好きな女性と結婚したいという願望を断ち切られ、女性を相手に自分の性欲を自力でみたしたいという願望を断ち切られ、それらすべてから疎外されることによって、自分の実存に大きな傷を負い、自分の人生がその傷を中核として回転していくような状態に陥ってしまうこと」だとした

西井開『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社,2021)(p25)

過去のさまざまな経験から、自己評価や自信が低い、そういった価値観があることそれがメンヘラのイニシエーターなのではないでしょうか。

 

 

 

クラッシャられ

サークラにのめりこんでいく様子を指す言葉としてクラッシャられというのがあります。一般的ではありませんが、サークルクラッシュ同好会で共有されている用語だそうです。

サークルクラッシュされやすいサークル、クラッシャられやすい集団とはどういうものなのでしょうか。

鶉まどか曰く

「一番”落としやすい”のはアニメのオタクです。アニメ鑑賞は、テレビの前で決まった時間座ってみていればいいだけの、積極性の必要ない趣味なので。ほかにも、ゲームみたいな、参入のハードルの低い趣味の集いほど、クラッシュは起こりやすいですね。『受動的な自分にも目をかけてくれる女のコがいる』と思わせることができれば、あっという間に好意を寄せてくれます」(p109)

逆におカタいオタク(鉄道など)は「女のコ以上の興味の対象があるから、クラッシュしにくい」のだそうです。

われわれで例えると、クラッシャられやすい脆弱なサークル順に、

  1. たまたま居合わせた人同士、「仲良し」サークル
  2. アニメやゲームをする仲間のサークル、コンテンツ性の少ないイベントサークル、受動的な趣味サークル
  3. ある競技で上位を目指すサークル、コンテンツ性が高いイベントサークル、積極性が必要な趣味サークル
  4. 男女比の均等なサークル

どうでしょう。

「サークル」をディスコードに変えてみたら……よくある話ではないでしょうか。

 

 

 

サークルクラッシュの仕方

サークルクラッシュには、①「クラッシャられ」のように姫的な存在にサークルメンバーが恋焦がれていくことが必要です。それにくわえて②無自覚サークラを射止めると、とどめになります。冒頭のゴーリキーの小説では①→②ときれいに進んでおりましたね。

ここではバーチャルサークルクラッシュをする方法として①姫的な存在のなり方(自覚があるので自覚型サークラ)②無自覚サークラへのアプローチを考えたいと思います。

 

 

自覚型サークラのなり方

見た目や声、しぐさ等については男受けのよいものを選ぶことがよいでしょう。つまり「可愛いヒラヒラの服か、ゴシック・パンク系」のファッションでしょう。

そのほかに

  • 1対1のコミュニケーションする機会を多く作る
  • 丁寧な相槌
  • 共感を示す
  • 同じノリ・言葉(2ちゃん・ニコニコのノリや言葉)
  • 八方美人
  • 好きな異性がいても自分から告白しない
  • likeな好きを伝える
  • 相手の話を引き出す

など、「受動的な自分にも目をかけてくれる」「自分のことをわかってくれる」という印象を与えることが大切です。

 

つまりはこういうことです。

venus.best

 

 

無自覚サークラになってしまった例

無自覚に、八方美人がゆえに上記のような行動をしてしまうとどうなってしまうでしょうか。匿名ダイアリーですが、とても痛い内容が書かれいます。

anond.hatelabo.jp

 

 

無自覚サークラへのアプローチ

無自覚サークラは自己肯定感(≒自信)がなく、自分のことが嫌いです。つまり、「私を変えてくれそうな人」「私をどこかに連れてってくれそうな人」が好みです。したがって、ほめるだけでなく、disることが必要なのです。

 

disることで、ダメ出しをしてくれる人に男らしさや「ダメな私のことわかってくれる」と感じるのでしょう。

 

そのため自信のあるフリをしましょう。具体的には、カースト上位を目指しましょう。マウントをとりましょう。自信があり自分の価値観モノサシでみたらキミはなんて美しいんだ、みたいなことを伝えましょう。

 

つまりはこういうことです。

togetter.com

 

 

 

 

サークラにならない

いままでの記述をまとめると

  • バーチャルでは「姫的な存在」になりやすい

 

  • 内向的で自信が低い
    •  スクールカーストや、過去の「キャラ」など、リアルでのさまざまな経験から、自己評価や自信が低い価値観がある
    • 一気に評価が下がるのを気にしている
    • 自分自身について、あるいは自分が周囲からどう思われるかについて、いつも考え続け、「自分がダメであることに関しては、誰よりも自信がある」から自己嫌悪してしまい、さらに自己評価が下がる

 

  • サークルクラッシュ 
    •  たまたま居合わせた人同士、「仲良し」サークル
    • アニメやゲームをする仲間のサークル、コンテンツ性の少ないイベントサークル、受動的な趣味サークル
    • 八方美人でキャバ嬢的コミュニケーションをとると自覚型サークラ
    • 無自覚サークラは自己肯定感(≒自信)がなく、自分のことが嫌い。つまり、「ダメな私を見てくれているのに好きって言ってくれる」が好み。したがって、ほめだけでなく、disられると惚れてしまう
    • 中身女性だとバーチャルを超えた恋愛への発展可能性があるため、望んでもいないのに無自覚サークラ扱いされてしまう

 

サークラにならないためには「姫的な存在」であることを避けるのは非現実的だと思います。男女比率は変えられませんので。そうではなく「自己肯定感を低くしない」方向にシフトしたほうがよいと思うのです。上記の箇条書きでは中段だけが、変更可能なものに思えませんでしょうか。

 

先に述べたように、自己肯定感ではなく自信や自己評価といったもので言い換えたほうがよさそうな概念でした。

これをコフートでいうところの未熟な自己愛だと捉えたいと思います。この自己愛を満たすには3つの方法があるといいます。

  1. 鏡映自己対象:他人を移し鏡にして自己愛を満たす
    • 自分を認めたり愛したりしてくれることで自己愛を充たしてくれる対象
  2. 理想化自己対象:理想の対象を介して自己愛を満たす
    • 理想を引き受けてくれることで自己愛を充たしてくれる対象
  3. 双子自己対象:自分に似た対象を介して自己愛を満たす
    • 自分に似た特徴や境遇を共有することで自己愛を充たしてくれる対象

 

 

鏡映自己対象がおそらく一般的な承認欲求の対象にあてはまると思います。自分を認めてくれる他者のことです。そのため、いいねやリツイート数を稼ぐことでも満たされると思います。

 

理想化自己対象は「推し」だと思います。リスペクトの対象として、自分ができなかった理想を埋め合わせられる相手、またパートナー関係で相手に「足りないところを補ってもらっている」というのもこれに当てはまるのでしょうか。

もしくは、自分のアバターも理想ではありますよね。

 

双子自己対象は感情移入してしまうほどわかる相手だと思います。似た境遇、似た趣味の人と会話して思い出を共有することは至福です。

(男子でも女子でも)一緒にトイレに行くという行動は、双子自己対象を満たし合うための行動として考えれば、なるほど意味のある行動だったのかと思います。

 

人はお互いを自己対象として自己愛を満たしながら生きているのです。ですがヘラぎみな私は(われわれは)未熟な自己愛のため、自己対象への要求水準が高すぎるのです。

 

そして、高い要求水準を相手に期待して失望や不満に陥るのを端から避けるために、自己愛を充たしたい気持ちに蓋をするのです。「裏切られた」とならないために先回りしてもとから「求めていない」と自分に言い聞かせるのです。

対人関係に警戒心を抱いていています。私の論で言うとスクールカーストの例で挙げた、「一気に評価が下がる」のを気にして妥当な・ベタな動きやその場にあったキャラとして動くことしかできないのです。

その一方で、自己対象として期待できそうな相手と認めると極端に高い要求水準を求めて相手にびっくりさせるのです。

ふだんはおとなしいメンヘラ子が、好きになった(なってもらった)とたん、自分の過去・パーソナリティなどさまざまな「ありのまま」も認めてほしいと要求し、「重い」と言われるのと一緒です。

 

こうした未熟な自己愛の成熟に対して、自己対象へのちょっとずつの失望や“最適な失敗”が必要であるとしています。

ここは教室ではないのだから「一気に評価が下がる」ことを気にしなくてよいのです。

 

……とは思っていても、結局バーチャルの関係はサークルという小集団の営みになりますし、そこでは先のブログにのせたようにカースト意識をしてしまっても仕方ないかもしれません。

 

ただし、サークルは教室よりもっと軽いもので、行き来自由なはずです。

バーチャルのアカウントも作り直しが可能なはずなのです。

 

なぜか、固定メンツに対して、ただ一つのアカウントでバーチャルすることがよいというイデオロギーを感じます。が、自己愛の成熟を考えると、というかそもそもそれが良いという事実さえなく、無視して構わないものではないでしょうか。

 

自己愛に関しては以下を参考にしました。

polar.shirokumaice.com

 

 

 

 

 

リアルとバーチャルの連続性、むしろスクールカーストなどリアルでのイニシエーターが根にあり、バーチャルがそのプロモーターとして役割を果たしてしまっていると、一連の流れを記述し終えたときに感じました。

そこでは転生可能な流動性が自己愛のプログレッサーとなるのだと希望をもち、『オタサーの姫』の感想としたいと思います。

 

 

 

参考

 

 

instanceカースト

鈴木翔『教室内カースト』(光文社,2012)を読みました。

教室内カースト



 

 

これは2012年の書籍です。私が学生時代を過ごした時期と重なっており、私の意識に近いものが説明されているなと感じます。

つまり、今でもスクールカーストにとらわれているところがあると思うのです。

 

そこで、VRChatをはじめとしたVRSNSで感じる生きづらさはこういった側面があるのではないか。と仮説をたててみたいと思います。

本書を抜粋して、置き換えてみたいと思います。
そこにヒヤっとするところがあれば、カーストの意識を私が今でも持ってしまっているということです。

 

ここで示したいことは、カーストがあるかないかではありません。
スクールカースト存在下で育ってきた私が、そういった意識を持っているかどうかです。

 

 

 

・ギャルが「上」で、オタクは「下」(p96)

・力関係を把握しやすいように名づけられている(p100)

「ギャル」「普通」「地味」、「イケてるグループ」「イケてないグループ」のように、クラス内のグループに何かしらの名前を付けて力関係を把握している

 

↳「○○勢」のようなクラスタリングは行われていると思います。またキャラクターのロールプレイを重視している方もいるので、一概にヤンキーやギャルが上位ではないと思います。(中身ではなくキャラクターだからという意味もあると思います)
くわえて、一般にオタク文化は土台としてあるように感じます。

オタク文化とは離れた「メタバース」という言葉やマネタイズを感じると距離を置くことがあり、私の周りでも同様の空気を感じます。

 

一般VRSNS層とマネタイズを感じる層とでは、グループは横並びの状態であると感じます。どちらが上位でどちらが下位というわけではないと思います。宮台真司のいう「島宇宙」の状態に近いと思います。

 

つまり、ここには格差はないだろうと、私が思っていると考えられます。

 

 

ですが、過ごしていて楽しいことだけではありません。
その生きづらさがどこから来るのか。マネタイズ層ではないのならばどこからでしょうか。

本書の内容を読み進めて答えを見つけたいと思います。

 

 

 

  • 権利と義務

・上がいなければ、下だっていろいろできる(p126)

・上位であるほど、「自分の意見を押し通す」ことができ(p130)

・「クラスの友達の意見に合わせる」ことに関しては、男女ともにそれほどの差は見られません(p131)

・何らかの理由から「自分の意見を押し通す」ことができる生徒が、コミュニケーション能力があるとされてきた(p131)

・「『1軍』の義務として」権利を使わなければ何も進まない(p137)

スクールカーストはコミュニケーション能力によって形成されていると思われていたが、誤りのようである。上位も下位もコミュニケーション能力に違いはない、ただし上位には「意見を押し通す」ことが特徴である。

上位は上位で盛り上げたりすかしたりしなければならない。みんなが黙っているときに仕切らなければならない。人を動かす権力が使える分、誰かがやらないといけないときには上位の人がその義務を果たす。

下位の人は上位の人がいないときにはその役割をすることができる。(相対的に上位の人がやるべきと責任を果たす)

 

↳どうでしょう、コミュニティに所属しているのであればすこしヒヤっとすることがあると思います。

意見を押し通す人に少し嫌な気がするのと同時に、何も意見を言わない人にも嫌悪感を抱きます。私はどちらかというと後者ですが……

上位の印象を持つ人はその人なりに、自分がやらないとほかの人は動かないという使命感があり、それもしんどそうです。

 

 

  • 「上位」の特徴

・にぎやかで、声が大きく、バスで後ろの席を占領する(p146)

・気が強く、仕切り屋(p151)

声が大きかったり、気が強く仕切り屋だったりする。

「イケているグループ」は「最初から人気があ」り、「アピールの仕方がうま」く、先輩たちと仲良くし、「わいわい」楽しくダンスを練習しているのに対して、「イケてないグループ」は、あまり仲良くすることができず、ダンスの踊り方を詳しく聞き出せないので、なかなかダンスが上達せず、練習を楽しくすることができないのです。(p150)

 

↳気が強かったり仕切りたがりだったりする人は上位の印象を受けますね。

また、p150の引用にあるように、「最初から」人気があるように思え、そういった人たちが「わいわい」楽しそうにしている印象を受けます。対して、人に聞きだせないでいる方は下位の印象を受けてしまいます。

 

・異性の評価が高い(p154)

・「めちゃめちゃキャラがおもしろくて、『イケてる女子』がそのキャラを気に入ると」男子の立場は強くなっていく(p156)

・若者文化へのコミットメントが高い――女子は容姿に気を遣う(p159)

かわいい子と付き合っているのは立場が強い。恋愛市場や若者文化へのコミットメントとグループが密接に関係している。

もともと容姿が端麗である生徒が「スクールカースト」の上位グループに所属しているというよりは、むしろ、「努力」というキーワードで語られるように、流行に敏感にアンテナを張り巡らせ、それをキャッチできるような生徒が、「地位」が高いと捉えられています。(p159)

 

↳われわれの言葉に変えると、boothの新商品をチェックして、男ウケのいい可愛くえっちな衣装を着た改変の上手なユーザーが上位の印象を持つということでしょう。

くわえて、そういった上位のユーザーと仲良くしているユーザーは立場が強いだろうという印象がある。これもよく見かけるなと思います。

 

・運動ができるイケメン(p163)

ですから彼女は、「卓球とかバドミントンではいくらできてもダメ」であるとも語っています。(p164)

ラケットを使う球技はモテない、スポーツによっても印象があるらしい。

 

↳DJやダンス、BARやcafeイベントなどさまざまありますが、そのイベントごとで上位かどうかの印象があるかもしれないです。

一応言っておきますが、もちろん、それらの立場に上も下もありません。

 

 

  • 「下位」の特徴

・特徴はない。しいていえば、地味。(p169)

 

↳上位の特徴からはずれた、発言力がなかったり行動力がなかったりする人が下位の印象を受けると思います。

オタクかどうかはここでは関係なく感じます。(みんなオタク趣味を持っているだろうから)

 

 

 

 

以上、地位の差なんてないのにもかかわらずそういったものを感じてしまうことが、私にはあるように思えます。

 

本書には、生徒から見た地位の差は「権力」として解釈され、対して教師から見た地位の差は「能力」として解釈されるようです。

 

私の場合、それがごちゃまぜになり、権力も能力も持っているなと無いはずの印象を受けていることがあります。

 

 

まとめると……

ビジネスでやってそうな層と趣味でやっている層に距離があり、そこに地位や権力の差を感じません。

 

強く厳しめの言葉を使ったり、根拠の薄い自分の考えや他人の評価などを言ったりして、自分の意見を押し通そうとする人に対して、「上位」の権力を感じてしまいます。
また、その人に「発言力」や「コミュニケーション能力」が高いと感じてしまいます。

 

男ウケのするフリフリや露出度の高いえっちな衣装で改変する人に対して、「上位」の権力を感じてしまいます。
また、その人に「魅力」を感じてしまいます。
(これはその通りかもしれませんが……)

 

 

そして、そもそも上下関係を気にする感じ。
他人の評価を気にしたり、自分を下位だと思っていたりする、その思い込みこそが、スクールカーストの影響だと思います。

 

また、「発言力」や「コミュニケーション能力」が高いと感じる人の選択に従っていることが教室内で穏便に暮らす処世術であるため、今でもそういった人たちの意見に流されてしまいます。

これはパターナリズムに他なりません。

 

コミュニティや友人関係・恋人関係で、そういった人を下位の自分でも導いてくれる上位の存在という幻想を抱かないようにしましょう。

それは自分の意見を押し通そうとする自己中心的なムーブだからです。

(もし、それを「許してあげる私」の母性を感じているのならば、それは選択から逃れているだけです)

 

 

 

学校を卒業しても、スクールカーストの影響が価値観を作っているという再確認ができました。

 

この劣等感を、こんどは自分が上位に立つように努力するのではなく、
せっかくコミュニケーションの解剖をしたのですから、価値観を改めるといった行動に移していきたいです。

 

Awesome City Clubの歌詞のような恋愛がしたい

2010年代中ごろから流行しているネオシティポップ

高度経済成長からバブルの間、日本が元気だったときの都市観を描いたシティポップをリバイバルし、現代風にまとめ上げたジャンルです。

なかでもAwesome City Clubが好きで、その恋愛観にハマってしまうのです。

 

 

 

 

今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる

カクテルソーダじゃなくて今日は なんか強いやつ飲みたいな
終電前に出ちゃうんでしょ? つまんない

今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる
割り切れない 僕らの感情が ループしていく

 

youtu.be

 

 

青春の胸騒ぎ

あの日に
タイムトリップ青春の胸騒ぎ
ふざけ過ぎた夜がよみがえる
あの頃に戻ってはしゃげたら
かじかむ心 満たされるのかな

 

youtu.be

 

 

アウトサイダー

もう二度と
ありきたりな言葉で
片付けないで僕の心
もう空気読んでばっか
いられないねアウトサイダー
今変わらなきゃ!

 

youtu.be

 

 

Don't Think, Feel

やりかけのデスクワークは置いといて 会いに行くよ
リスケばかりで フェルメール展はもう 中吊りが外れてた

Don't Think 言葉より
Feel It 本能の赴くままに
この愛に理由は要らないのさ

 

youtu.be

 

 

最後の口づけの続きの口づけを

家で大事な彼が待ってるのに
帰ると言えないや
酔ったせいにして

錆び付いた時計の針が動き出して止められない
別れた日の
最後の口づけの続きの口づけを

 

youtu.be

 

 

勿忘

願いが叶うのなら
ふたりの世界また生きてみたい

 

youtu.be

 

勿忘は花束みたいな恋をしたのテーマソングでもおなじみです。
私はその映画にもひどく心をやられてしまいました。

 

youtu.be

 

 

全体を通して、想定しているのは20代半ば以降でしょうか。

思春期の青春や、学生時代のチャラついた感じがない、就職後の大人な空気があります。

あのころ恋愛に全力を出し切れていなかった。今はそこまでの体力やわんぱくさがなく、理性もあり社会の一員でもあるから、感情を抑えてしまう。

それでも、お酒のせいにして、気持ちの赴くままに愛し愛されたいのです。

 

 

「そろそろ結婚しなきゃな」という気持ちもあるけれども「恋愛をあきらめたくない」のです。

 

 

あなたは私とAwesome City Clubを聞きながら、お酒をのんで、見つめ合ってくれますか?

そうすれば、恋愛の成分を一緒に摂取できると思から。

自己中で自分が一番大切なのに、自分が嫌い

さまざま心理テストをしてマイペースといわれ
病んでいるときに 自分を大切に といわれ
そんなのわかっているのに、いままで自分を大切にして生きてきたつもりなのに、何もできない自分がとても嫌いです。

 

 

 

…………

 

 

 

ユリイカの5月号を買いました。

ユリイカ2023年5月号 特集=〈フィメールラップ〉の現在

 

 

私は女性のラップをよく聞きます。
とくに泉まくらにハマっており、なかでもbabyという曲の歌詞が大好きです。

 

アノ子と私の違いなんて
飽きるくらい比べてきたのに
私がいつでも足りないのに
『自分を好きになろう』なんて
雑誌の見出しに心乱してる

 

この歌詞に何度も わかる と言い続けてきました。


babyは不安感でヘラっている歌詞なのに、キュートなリズムでずっと聞いていられる不思議な魅力があります。

 

youtu.be

 

 

 

ヘラっているときに、よく『自分を好きになろう』『自己肯定しよう』なんて言われます。
それは話を聞いてくれる人だったり、自己啓発本だったり、ふとググってでてきたまとめサイトだったり。さまざまです。

 

私だってそれはわかっているのです。

でもなかなかできないのです。

だからヘラっているのです。

 

子どものころから「自己中」とか「わがまま」とか言われてきているのに、
この年になって「自分大好き」を突き通せなくなってしまっています。

 

 

いいえ。言葉の使い方が変わったのかもしれませんね。

あのころ使っていたのは「自分勝手」という意味で「自分が好き」といっていました。

しかし、今「自分が嫌い」というと、自分勝手にできないという癇癪ではありません。

他人と比較して自分が劣っている、babyの歌詞でいう「私がいつでも足りない」のです。それをもって、価値がないから嫌いと表現しているのです。

つまり、自分はなんてダメなんだろうとその存在を認めたくないという気持ちです。

 

この気持ちは抑圧で、ホントはありのままの自分を認めてほしいという気持ちの裏返しなんだと思います。

 

それでも、他人より上に居たいから、真実を知っていると主張するのです。

 私は価値が低い という真実は私だけがわかるもの。あなたにはわからないでしょ? とマウントをとるのです。だから 自分が嫌い ということを主張してヘラるのです。ほんとは認めてほしいのに、です。

 

 

 

自分も他人もある程度デフォルメされた情報で比較します。
「アノ子と私の違い」を比べているときの私はデフォルメされたキャラとしての自分だと思います。

「私がいつでも足りない」ことが真実であるという前提のもと、バイアスのかかった比較をしているのですね。

そしてキャラを認めてくれる人がいたとしても、ありのままの私ではなく、作り上げたキャラを認められているので なんか違うな となってしまうのです。

 

 

 

私はひとつの防衛としてこういった思考をしていると思います。

逆に言えば、尊厳の傷つかないような安心した場に居ることができれば、防衛が働かなくてすむ。自分を嫌いにならないのではないでしょうか。

 

 

 

そのためにできること、2つあると思います。

 

 

 

①発言力のカルトから脱する

言葉や態度、発言力の大きな人が「実は○○さんの△△なところが嫌いなんだよね」と打ち明けてきたりします。

私はそういったとき、これからの人生タスクに 自分が嫌われないように△△しないように気を付ける という新たな項目が追加されます。

発言した本人は、ちょっと悪いことを共有して仲良くなりたいとか、ただの愚痴だとかで、そこまで本気で悩んでいることではなかったりするのですが……。

その人がみんなから慕われたりしていればするほど、気になってしまいます。

 

その委縮から脱するようにしたいのです。

ちょっと思いついたことを書いていきたいと思います。以下は自分への言いつけです。


まず、人の悪口を言ってマウントをとることによって安定な自己肯定感を得ているような人をリスペクトしないようにしましょう。その人は加害者です。

みかけ上、マウントがとれているためそういった 上位 の人に他人が集まって慕われているように見えますが、まやかしです。

悪口を言われないよう、その人の見える範囲に居たり、まやかしに気づいてない人が集まっているだけです。

また、負の感情をともなう言いにくい言葉を共有することで、そういったことを言い合える関係だと、急接近してくるような錯覚を与えているだけで、どんな人にも言っているのです。

 

こういった教祖的な人に構ってしまうと、カルトのように、その考え方がスタンダードだと思い込んでしまいます。

私のような 自分が嫌い な人と 他人が嫌い な教祖とでは考え方が異なるのです。

発言力のカルトから抜け出しましょう。

 

 

 

②お茶をする

自分が嫌い と思っているときは、 嫌いなところ寄せ集めキャラ を演じています。
それを否定されても肯定されても、ありのままの自分とは違うため なんか違う となってしまうのです。

逆に言えば、ありのままに近いキャラを演じられるような、安心できて尊厳を保てる場があれば、自分を嫌いにならないはずです。

そういった場は、家庭とか恋人関係に当たるのかもしれません。

 

どうすればそういった場を作れるのでしょうか。
演じるキャラを少しずつありのままの自分に補正するのがひとつの方法ではないでしょうか。

相手に「私」を知ってもらうのです。相手に知ってもらえれば、演じるキャラがありのままに近いものになると思います。

そのために、少し深いコミュニケーションをするのが一つの手段だと思います。
その実践が「お茶」です。親密な対人関係を育むための一つの方法として提唱します。

サシ飲みでもいいですが、ネガティブな情報や肉体関係に移行しやすいので「お茶」の方がいいと思います。あまり重い話ではないので気軽に誘いやすく、断りやすいのも優秀です。

 

また、お茶をするときに オールorナッシング思考 をしないように気を付けたいと思います。

オールorナッシング思考とは、
「お茶するような仲になったのだから、なんでも私のことを知ってほしい。
そうでなければ何も知らないでお茶もしないでほしい」というような思考です。全面的に承認されるか、全面的に拒絶されるかという思考ではないのです。

お茶はもっと軽いもので、だれとでもするものです。
ちょっとだけ仲良くなった人とでも、逆に信頼できる人とでも。それがサシ飲みとの区別だと思います。

 

例えば……

□ お茶の感想を言う
□ 好きな飲み物/食べ物の話をする
□ 好きな外食チェーン店の話をする
□ もし2人で行くなら(実際に行かなくても)どこのお店に行きたいか話し合う
□ 食べる以外に行くなら映画やゲームセンターなどどこにに行きたいか話し合う

 

など普通の会話でいいのです。
自分の履歴書のようなものを相手に知ってもらうわけではなく
最初は相手と同じものを共有していく想像をしたいと思います。

いきなりありのままの自分を出すのではなく
さまざまな会話の中から染み出る自分らしさを相手に感じ取ってもらって
脱力してコミュニケーションがとれる土壌をつくっていくのです。

パーソナルなことについては「それを言ってひかないかな?」と考えてみて
ひかなそうなくらい仲良くなってから話します。

 

私の年齢などパーソナルなものですので、仲良くなってから教えると思います。

 

 

くわえて、一緒に美味しい温かいものを飲むことが
心を落ち着かせ「美味しい」というプラセボに乗って、ポジティブな話題で盛り上がれると思います。

 

 

 

VRCはかなり深夜帯がゴールデンタイムですが、少し早い時間に

私と「お茶」してくれませんか?

失恋記念に恋愛系書籍を読み漁って

失恋記念にブログを書いています。

恋愛観はそれぞれあると思いますが、おおよそ次の3つに分けられると思います。


❶恋心 衝動的に好きになるもの
❷交際 結婚もしくは「お付き合い」を目的とするもの
❸生殖 生殖・繁栄を目的とするもの

 

私たちはこれらを恋愛とひとくくりにしてしまいがちです。
「付き合うなら○○、結婚なら▲▲」なんて言い方をするくらい、元々は別のもののはずです。
(この場合恋心を抱いている相手は○○のことが多いです。)

 

また、これら3つは必ずしも男女1対1の関係でなくてもよいはずです。
好きな人が2人以上いることだって、世の中にはあるでしょう。一夫多妻制の地域や時代もあります。セックスフレンドをもっている人もいるでしょう。

 

しかしこれらは、ひとくくりかつ1対1が正しいという印象も同時にあります。
これらの考え方は戦後に普及したイデオロギーです。結婚という制度とともに。
(戦後といったのは、戦前ですとお見合いがきっかけで結婚する人が多かったためです。)

 

理想の結婚像という神話では❶恋心を抱いた相手同士と❷交際し❸性行為をし、家族をつくる。
1人の異性だけと、十分に満たすのです。

 


私だけかもしれませんが、これらの恋愛観に優劣付けず1人の異性に対し想い続けることはできないと思います。
逆説的に、それをできる相手が「運命の相手」となるのでしょうが……。

なかなかすべて叶うことができなかいから、恋愛についての悩みが尽きないのでしょう。

 

うまくできていると見える人は、代替をしているだけなのかもしれませんね。
恋心なら恋愛作品を観る、交際ならば友人と親しくする、生殖ならば性風俗など。
そういった解消方法を知っているか知らないかでは恋愛での「重さ」が違ってくるのかもしれません。

 

 

失恋の内容ですが、
私は異性に❶恋心を抱いていましたが、私ではなく❷を重視する方を選んだ、ということです。

 

これらは別軸のことのため、優劣はないのでしょうが、
明らかに恋心の方がピュアで清楚だと、そのときは信じていました。
だから、交際目的の同性を「誰でもよかったのではないか」と嫌悪してしまいました。
恥ずかしいかぎりです。

 

恋心の方がピュアだと感じるのは、ロマンティックなイデオロギーに縛られていて
交際も性行為も、互いの恋心が前提にあるという神話を信じてしまっていたからなのでしょうね。

 

くわえて、恋愛がうまくいけばおのずと人生もうまくいくという描かれ方の作品に影響された、恋愛至上主義的な考え方によって、
恋愛がうまくいかなかったので、それにともない人生もダメであるという否定的な錯覚を覚えてしまって、最近は憂鬱でした。

 


……と、まとめるのは簡単ですが、
ここに至るまでの心境の変化はかなり複雑です。
ムキになって恋愛系の書籍を読んで、少しだけでも成長したかなって思えてやっと、俯瞰して文字にすることができています。

 

 

 

 

恋愛で悩んでいるときは必ず読む本があります。どちらかというと❶の要素が強いですが、
二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス,2014)というエッセイです。

こちらは女性向けの内容ですが、男性向けの 二村ヒトシ『すべてはモテるためである』(イースト・プレス,2012)もあります。

 

自己嫌悪してしまいそうな自身のネガティブなところを「心の穴」と表現し、そんな嫌な面も受け入れる、自己受容をしよう という内容です。そうすればヤリチン男(クズ男)に依存してしまうのをなおせるというのです。モテるための自信も、自己受容から来ます。

 

似た内容がほかの女性向け自己啓発やエッセイにもあり、最近は
神崎メリ『メリ子先生、わたしどうしたら大好きな彼と幸せになれますか?』(SB Creative,2023)を読了しました。
クズ男回避のメソッドを「メス力」と呼び、具体的な方法とマインドを書いているので実践しやすいと思います。

 

男性向けの類似の内容ですと、宮台真司『「絶望時代」の希望の恋愛学』(KADOKAWA,2013)があります。当時筆者のイベントに参加した覚えがあります。
これもまた別の失恋の思い出です。

 

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

 

すべてはモテるためである

 

メリ子先生、わたしどうしたら大好きな彼と幸せになれますか?

 

「絶望時代」の希望の恋愛学

 


恋愛相談系の内容だと、❷の交際関係の色が強く出ますが、
桃山商事『生き抜くための恋愛相談』(イーストプレス,2017)が大好きです。
というのも、書き手の話のほぐし方がとても上手なのです。

例えばクズ男に対する内容だと、上記2つとは書き方が異なります。
クズ男との恋愛がなぜか楽しくマトモ男子と付き合えないといった内容の相談に対して、ダメな男ほど魅力的だとか、結婚するには普通が一番だとかいう話をせず、相談者がなぜクズ男の要素があると楽しくなってしまうのか、という理由を探っていく構成になっているのです。

なぜクズ男との恋愛が楽しいのかというのを軽く提示したうえで、その原因はクズさではなく、何が起こるかわからない予測不可能性が本質ではないかと仮説をたてます。それならばマトモ男子に対しても自分からアクションをとることで予測不可能な体験をすることができると提案しています。
クズ男かマトモ男子かといった二項対立に陥ることのない恋愛相談が、心地よいのです。

 

桃山商事『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(イーストプレス,2019)もおすすめです。
好きだとか、好きになってもらうだとか、そういったこと以外にも人間関係を構築する楽しさが恋愛にはあり、それら恋愛の周辺事項が書かれています。

 

生き抜くための恋愛相談

 

モテとか愛され以外の恋愛のすべて

 


逆にモテを中心に書いている書籍も読みました。
藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』(幻冬舎,2015)やゴッホ『新版 恋愛工学の教科書』(総合法令,2022)は恋愛工学について書かれたものです。
恋愛工学とはいっても❸の恋愛観が強く、セックスをゴールにナンパを手段としてその成功率を高める内容です。

 

ナンパに関しては草加大介『ナンパ塾秘伝 口説きマニュアル』(河出書房,2018)を積読としているところです。

 

男女両方の視点から書かれた ひろと『モテる人の恋愛科学』(KADOKAWA,2021)は読みやすい2色刷りで、内容の具体性もありました。

 

ぼくは愛を証明しようと思う。

 

新版 恋愛工学の教科書

 

ナンパ塾秘伝 口説きマニュアル

 

モテる人の恋愛科学

 

 

 

 

 

本の紹介ラッシュはおしまいにしましょう。

先人の知識を借りることで、自分は小さくても、背伸びをすることはできるのですね。
ちょっと自信が出ました。

 

 

さて、私はVRを趣味にしています。
VRの世界を観察していると❶~❸の行為(真の意味でも代替の意味でも)に該当するものがあると感じることがあります。

 

身近な例ですと、私たちは日常的に「可愛い」と言い合い、撫で合います。これは疑似的な恋心にも思えます。なぜならば、可愛いという言葉を投げかける時点で、多少なりとも好意をもっているからです。

 

リアルの例でいうと、
本当は好きな人のことを「尊敬している」だとか言い換えて好意を表現することと一緒ではないでしょうか。

 

 

パートナー関係を築くことをお砂糖といいます。また、疑似的な生殖行動をjustと呼ぶそうです。

それらについて触れるにはここはpublicすぎるため、今はやめておこうと思います。

 


先の失恋のとおり、私は❶恋心を強く求める傾向があるようです。
逆に生殖は苦手で強い欲求はないと思います。生殖行為も、子供をもつという選択も。

交際については、結婚をきらう傾向があります。彼氏彼女の関係であれば、恋心のゴールの一つとして関心はありますが、それをきっかけにしてから仲良くなろうとか、ステータスとして恋人がほしいとかはあまり思いません。

 

繰り返しますがこれらに優劣はありません。
そのため、交際や生殖に対してインモラルといった評価を下すのは間違っていると思います。

ロマンティック・ラブなイデオロギーが前提にあるため、恋心が純心なように思えますが、それは錯覚です。

 

結婚を目的としたアプローチも、セックスを目的としたナンパも平等に扱う、という立場にいたいのです。


ですが、私個人として恋心を、衝動的な「好き」を、胸の高鳴りを羨ましく思うのです。

 

 

もしVR内のイベントで誰かをもてなす側にたつことがあれば、その際は疑似交際や疑似生殖というよりむしろ、疑似的な恋心を抱き抱かれる関係を、少しでも味わえるようにしたいと思います。

 

その関係性に名前なんていりませんし、交際なんて長期間の縛りもいりません。
甘い雰囲気で互いに目を見つめていればいいのです。

時計が止まったかのように時間を忘れて。

 

 

 


短期間でも個人を好きになるなんて、他人に興味をもとうなんて、もちろん難しいことです。

 

だから、人の気持ちを理解できるよう、他人の書いた言葉を、本を、
読み続けていこうかなとやっぱり思うのでした。

『認められたい』を読んで 承認とキャラについて考えたこと

 

読書の感想です。

熊代亨 『認められたい』(ヴィレッジブックス,2017)を読んで、承認について考えを巡らせていました。

 

承認欲求は、一般的にアブラハム・マズローの「欲求段階説」では4段階目に位置するもの。また、スティーブン・リースの「16の基本的な欲求」では、人に認められること、人から認められていると思えることの両方であるとされています。

ただし、『認められたい』では、狭義の承認欲求だけを言及してはいません。
承認欲求と所属欲求を合わせたものを「認められたい」「関係性の欲求」と呼んで説明しています。

確かに、漠然とした「認められたい」という気持ちを細分化すると、注目されたいという気持ちだけではなく、無視されたくない、仲間とみなされたいといった所属欲求に属する気持ちが結構あります。

こうした「認められたい」気持ちはハインツ・コフートのいう自己愛と重なっていると指摘します。くわえて「認められたい」に悩んでいる人は、それを扱うレベルが低いのではないか、という立場をとっています。

一方で、コフート曰く、自己愛は成長することができる、つまりレベルアップすることが可能だそうです。そのためには適度な欲求不満が必要なのだといいます。

他人に期待した「認められたい」が満たされない経験をしたとき、適度な欲求不満があるとき、その辛さを理解してもらえたり、仲直りしてまた気持ちが通じ合えたりする、「雨降って地固まる」ような経験を積み重ねることが成長につながるということらしいのです。

この「認められたい」を期待する他人は適度な欲求不満を示すような、対等に近い関係が必要だとしています。両親など、必ず褒めてくれる対象では成長につながらないといいます。

『認められたい』では適度な欲求不満や「雨降って地固まる」関係性の作り方として、具体的な方法が第5章と第6章に書かれています。

この関係性について、素人の私ですが、個人的な考察をしていきたいと思います。

 

認められたい 

 

 

といっても、ほかの本からの影響でしかないのですが。「キャラ」という面で考えてみたいと思います。

土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』(岩波書店,2009)や、斎藤環『キャラクター精神分析』(筑摩書房,2014)に書かれている「キャラ」というものを使って、私たちはコミュニケーションをとっていると思うのです。

キャラについてですが、「アイデンティティ」は、一貫した自己のことを指していましたが、対して「キャラ」は後述の引用のとおり、その場その場の断片的なパーソナリティを指すと思います。

「キャラ」とは、「じぶん探し系」のためにあるような言葉である。自己イメージが定まらない、言い換えれば、異なったコミュニケーションの空間で、その都度場面の空気に沿ってキャラを作り出し、あるいは微調整する才能は、「じぶん探し系」の独擅場であるからだ。それはいわば、うまく仮面を演ずるための才能なのである。

(キャラクター精神分析 p29)

 

また、アイデンティティではなくキャラを使い分けていくのみとする立場を「分人」と呼ぶそうです(平野 啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社,2012))。


つまりまとめると、いろんな人とコミュニケーションをする上で、それぞれに対して見せる「キャラ」の中心にいる本当の自己を指して「アイデンティティ」と呼びます。そういったアイデンティティはなく、たんに「キャラ」という仮面がたくさんあるのみだという立場を「分人」とする、こういうことだと思います。

現代はこの分人的コミュニケーションの方が基盤になっており、さまざまなキャラを使い分けて関係性を築いていると思います。
ですから、「雨降って地固まる」関係性を作る上でもキャラが重要になってくると考えています。

 

キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像

 

キャラクター精神分析: マンガ・文学・日本人

 

私とは何か 「個人」から「分人」へ

 

 

もちろんアイデンティティの立場でいても構わないとも思います。強い自己をもっていれば、自身の輪郭がわかりやすく自己肯定が容易です。

こちらはニーチェや岸見一郎ら『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社,2013)で知られるアドラー心理学、「自分を好きになろう」という女性向け自己啓発系の立場だと思います。

しかし、私はあまりこちらのタイプは似合わないかなと思っております。
個人的にマッチョイムズが強く、近寄りがたいという感想もあるのですが、前時代的な価値観であり、「キャラ」コミュニケーションに慣れた私や社会にとってはどこか合わないかなと直感的に思ってしまうのです。なにより「雨降って地固まる」というよりは「雨降っても気にするな」という方が似合っていそうな考え方だからです。

また、(これこそ女性向け自己啓発ですが)二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス,2014)にある「インチキ自己肯定」に陥りかねないとも思っています。

男性優位の社会ではインチキな自己肯定感が満たされやすいのです。

男は、お酒やギャンブル(アウトローな主人公が活躍する漫画や小説に投影している)、仕事の達成感や性風俗で肯定感を得られやすいのです。そういったインチキな自己肯定は社会や仲間が許してくれることで「自分自身に深い疑問を持たないでいられる状態」なのです(そのため、承認の悩みとは無縁というタイプは実はインチキ自己肯定マンではないかと思っています)。

男の変なマウント取りと、ホモソーシャルによるマウント取りが肯定される土壌が、やっぱり私は気に食わないのです。

他人の悪口ばかり言うことでしか、自分を安定できないような人間が、承認のことで悩んでいないなんて考えると、この世のバグかと思ってしまいます。

こういったインチキ自己肯定をされる立場は蝕まれるばかりです。
もちろん、インチキ自己肯定マンはアイデンティティの確立ではなく、強い自己というキャラを演じているのみでしょう。

理想ではあるのですが、こういった勾配のある関係性(インチキ自己肯定する/される)ではなく、対等な関係こそが「雨降って地固まる」ものになるのではないでしょうか。

勾配のある関係性は、一過性であったり一方向性であったりするものです。また、権力差のある上司と部下、男女関係、こういったものはハラスメントを孕んでいます。一時的な承認欲求は得られるかもしれませんが、「雨降って地固まる」ようなものではないと思います。むしろ予定調和な関係でしょう。

対して対等な関係を築けられれば、持続可能かつ、承認しあう関係になれるかと思います。あたりまえですが、承認欲求は承認してあげる側の存在も必要なため、自分がその側に立ちときには相手にも立ってもらえるような関係性がよい関係だと思うのです。

 

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか

 

 

これをキャラとして考えると、互いが自身の演じているキャラと理想の自己と実現可能な自己の乖離が少ない状態同士でコミュニケーションがとれる、ということかと思います。

そのために私たちができることは2つあるかと思います。

1つ目は、キャラの押し付けをしない、キャラ変を認める

2つ目は、コミュ力ではなくコミュニケーション能力

 

キャラの押し付けをしない、キャラ変を認める

私たちは互いがキャラを演じてコミュニケーションをとっています。一方で、自身の理想の自己像は別にあります。なぜならば、キャラというものは、空気を読むことによって受動的に作られるからです。そのため、自身がこう見られたいという自己像と演じているキャラに乖離があります。

また一方で、理想の自己像を追い求めていても現実的に限界があります。

他人から決められ演じているキャラ、理想の自己像、実現可能な自己、この3つをバランスよく調節することでキャラの安定性が増し、それを容認しあえる相手とのコミュニケーションが対等な関係になるのではないでしょうか。

そのため、他者がキャラを調節しても元に戻れと言わない、自身がキャラを調節しても同様に言われないようにしたいです。

また、そのキャラも、いじられキャラや毒舌キャラといった、関係性の勾配を内包しているキャラを押し付けない、押し付けられないようにすることも大切だと思います。

このあたりについては、斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA,2022)が詳しいです。

 

コミュ力ではなくコミュニケーション能力

キャラ的コミュニケーションの背景には互いのキャラをいじり合う「コミュ力」というものが重要視されています。

斎藤環『承認をめぐる病』(日本評論社,2015)に書かれるような、バラエティー番組の芸人同士のやり取りを教科書とした、つねにマウンティングといじり合いが行われるコミュニケーションの得意さを「コミュ力」といいます。

「雨降って地固まる」ような関係性をはぐくむうえでは、こういったコミュ力重視の関係ではいけないと思ってしまいます。

もちろん、LINEスタンプのような当たり障りのない会話を用いて、ひな壇芸人のようないじり/いじられの関係を築くのは土井隆義のいう「優しい関係」(ボケ役とツッコミ役のように互いに補完し合うキャラを演じることで人間関係を維持し予定調和の摩擦のない人間関係)を求めるのは、ときに必要かもしれません。

しかし、「雨降って地固まる」ような関係は摩擦があることを認め合う関係なのではないでしょうか。

 

「自傷的自己愛」の精神分析

 

承認をめぐる病

 

 

いやいや、そんな簡単に関係を築けないから「キャラ」コミュニケーションしているんだよ、と、話はもとに戻ってしまいそうです。

少なくとも私はこうしたことを考えて普段からコミュニケーションをとっており、今回感想を通して言語化しました。少しまじめで、冗談が通じにくい方と言われていそうです。

ただ、そこまでインチキ自己肯定に陥らずにいられているので、少しは効果があるかなと思います。

 

まだまだ「認められたい」のレベルは低いですが、互いのキャラ変を認め、様々な相手の表情を知ることに嬉しさを感じられるコミュニケーションを築いていきたいと思います。