『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』を読んでの感想です。
バーチャルの中でもホモソーシャルを感じることはあるのではないでしょうか。
ホモソーシャルとは同性間の社会的な絆のことです。
男性のホモソーシャルというと、「男同士の絆」「友情」「舎弟関係」などといった言葉で想像することができるのではないでしょうか。ヤクザものとかそうですね。
男性のホモソーシャルについてはイヴ・コゾフスキー・セジウィックの研究が有名です。セジウィックは、男性のホモソーシャルがレヴィ=ストロースのいう「女性の交換」によって形成されてきたといいます。
男たちが絆をゆるぎないものにするため。女性を交換可能な対象として、価値のある貨幣として使用することで、ホモソーシャルが成り立っていたというのです。女性を通して、男たちの絆は強固なものであると確かめ合っていたのでしょう。
しかしある時期以降、一夫一妻制の普及によって女性が交換可能な対象ではなくなりました。そのため、女性を通さずに、自分たちの絆を強固なものとして確かめなければなりません。
絆を強固なものとして確認し合う方法には、エロティシズムな性的なものがあります。それとは別に非性的なものもあります。
一夫一妻制、男女の婚姻(恋愛・結婚・出産の三位一体)が主流になると、それにつながらない男性同士の性的な絆は異端なものとされます。
ですから、男性のホモセクシュアルに嫌悪感を抱くことが社会制度的に「正しい」とされるのです。これがホモフォビア(同性愛嫌悪)ですね。
絆というものは、同質同士をつなげるものですから、ホモフォビアをもつ者同士に絆ができます。お前も苦手だよね、という男らしい絆が形成され合いますね。性的な意味ではなく好きだよね、と。このように非性的に絆を確認し合うのです。
上野千鶴子先生は、暫定的にですが「ホモソーシャル」を「同質社会的」と訳しており、「ホモソーシャリティ」は「異質排除のマッチョ志向」であると述べています。
(さまざま批判があるようですが、ここでは意味を限定せずにあやふやなまま用います。)
絆といっていますが、男性社会に階層・カーストがあるのもまた事実です。この階層は「男らしさ」が認められると上がる仕組みです。
例えば、マジョリティであることやモテというパワーゲームのトップにいることが「男らしい」のです。正しさや強さをイメージさせますね。
このパワーゲームに負けた者が弱者男性です。キモくて、金のない、おっさんが弱者とされるのはモテないことによって「男らしさ」のゲームに負けたからです。
もちろん「男らしさ」を作っているのは男性社会、男性のホモソーシャルで、もっというと上位の男性なのです。
しかし、弱者男性の怒りは直接上位の男性に向かわず、自分よりも立場が低い(とみなしている)女性に向かうのです。これがミソジニー(女性蔑視)です。「俺は女なんかとは違うぞ」と言うことで男らしさを主張しようとするのです。
いったんまとめましょう。
これらをバーチャルの世界に置き換えてみたいと思います。
バーチャルでの男性のホモソーシャル
われわれが「男の絆」を実感することは、VRSNSの世界でもあります。
男っぽい・体育会系っぽいノリと言い換えてもいいでしょう。
- 下ネタをいう
- ひな壇芸人のようなコミュニケーションをする(ボケとツッコミ)
- お酒を飲みかわす、強要する
- 煽る
- マウンティング
こういうノリを共有することにより「男らしい」(「同質である」「マジョリティである」「正しい」「権力がある」)ことを相互に確認し合うのですね。
バーチャルでのホモフォビア
「男らしさ」のひとつにホモフォビアがありました。こちらはVRSNSでは薄れていると実感します。互いに撫で合ったりするスキンシップもみられますね。
その結果、お砂糖やjustといった文化ができていると思います。
お砂糖やjustまたはそれに類するものに対して「お気持ち」することも見受けられます。これは社会常識や規約といった正しさを盾にしたホモフォビアでなければ何なのでしょうか。
バーチャルでの弱者男性
VRSNS界で権力・カーストが何をもって作られているのかは、実際わかりませんが。実感としては「慕われている」人は上位であり「慕う人」は下位であるように感じます。
寂しくない人、寂しい人。Friend+でinstanceを開いたら、誰かが遊びに来る人、青ステータスのまま独りぼっちのままの人。
SNSがつながり合うツールである以上、慕われ度合、その接続件数が多い人が上位という部分はあるのではないでしょうか。
それでは、下位にいる弱者男性は何をしているのでしょう。独りインスタンスで咳の響きを感じているのでしょうか。
といっても、publicへ行くことやイベントに参加することで寂しさを紛らわすことができますね。そこで、さらに仮定なのですが。最低限度のつながりをもっているため、少し上位の欲、「つながりたい人とのつながり」があるかないかが強者弱者とさらに分けているのではないでしょうか。
つながりたい人とつながれない人は、ヘラったり、ここでもミソジニーにはしったりするのではないでしょうか。
それこそ、女性について「怖い」という男性をみかけませんか?
バーチャルホモソーシャル
VRSNSらしいホモソーシャルの特徴というのを考えてみます。
VRSNSでの権力は「慕ってほしい人から慕われる」ことだと思うと述べました。これにはグラデーションがあり、その認め方も多様だと思います。
例えば、朝の挨拶をしながら露出度の高い写真を投稿する文化があります。これは露出度の高いものがよいと思う人が同質を求めて行う行為だと考えられます。また、エロティシズムな欲求を、直接justという行為で解消しないで承認という形に昇華させた例ともいえます。
またこれは本当に個人的なものなのですが。雑談インスタンスで見る動画が、バラエティー系YouTubeに偏っていると感じます。ボケとツッコミという、いじりいじられ、マウントをとるコミュニケーションを投影することによってホモソーシャルな欲望を解消しているのかもしれません。
VRSNSでは美少女アバターが多数を占めます。その結果、「男らしさ」から「降りる」という選択肢もできると思います。アバター・女声やボイスチェンジャーなどで女性的なコードを身にまとうことが可能なのです。「男性」という地位につかないという選択肢で、自ら貨幣として扱われることで、社会に参加するのです。
ここで、見かけ上、ギデンズのいう「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」に近いと感じてしまいます。自由に塑性できる性のため、「対等な人間同士による人格的絆の交流」という親密な関係性と錯覚してしまうのではないでしょうか。
(実際は選択したジェンダーのロールプレイのため、対等ではないように思えますが……。)
また、リアル社会では結婚することがまだまだ常識であり、むしろ義務のように感じます。
そのような中での「お砂糖」という関係は、結婚とは対極にある恋愛の純粋でプラトニックなものとして経験されるのではないでしょうか。
こういったロマンティック・ラブ(錯覚かもしれないけれども)が生まれやすいといった理由からも「慕ってほしい人から慕われる」ことが権力になりうるのではないでしょうか。
「男らしさ」から「降りる」という選択の結果、男性のホモソーシャルから解放され「女性のホモソーシャルを受け取る」という欲もあるのではないでしょうか。
しかし女性のホモソーシャルは社会制度に織り込まれてないため認識不可能なものといわれています(東,2006)。そういった枠組みがなければ育むことをスタートできません。
逆にいえば、ミサンドリー(男性蔑視)やホモフォビアがないとみえてしまうのではないでしょうか。
「男らしさ」から「降りる」ことを選択し、ミサンドリーもホモフォビアもない社会を仮想するのではないでしょうか。
実際、そこには何も見えないのです。
私たちにできることは、思春期のときに男の子には許されなかった、女の子同士の距離感の近いスキンシップ、女の子同士のイチャつきをロールプレイすることではないでしょうか。
これが、「降りたい」からそういったロールプレイをするのか、あるいはそういったロールプレイを純粋にしたいから「降りた」ようにみえることにしたのかわかりません。
ですが、いまだつづく男性のホモソーシャルの影響力を考えると、やっぱり後者なのかもしれませんね。