話し上手になりたい

この記事は前回スペースで話した内容をまとめたものです。

 

 

話し上手になりたい。

 

話、会話といっても、何種類かあると思います。ここでは大きく2種類にわけてみようと思います。ひとつ目は多人数での会話、もうひとつは1対1での会話。この2種類だけでも、だいぶ印象は違うかなと思います。

 

 

 

多人数での会話はカラオケに例えられると思います。発言をしている人が、マイクを持っている人、それ以外の人が歌を聞いている人にあてはめることができます。歌詞の内容、つまり話の内容を聞いている人もいれば、雰囲気だけ聞いている人もいます。

ある程度歌ったら(発言したら)次の人へ渡す。こういった会話は、なんとなく楽しいという雰囲気を共有するのに向いています。つまり、一体感をもとめて会話をしているのです。会話の内容というよりも、会話を続けるという状態の継続にその本質があるのです。

だから、雰囲気、ノリ、といったものをもとめているので、悪い言葉を使うと同調圧力がかかるので、それぞれの個性を発揮しにくいといったデメリットがあります。

そんな同調圧力がかかったなかでも発揮できるのは「キャラ」といった個性とは別の属性ではないでしょうか。いじられキャラ、毒舌キャラ、天然キャラ、そういった空気の読みあいの中で形成された、造られたパーソナリティであれば、いやむしろ同調圧力によって形成されたパーソナリティであるからこそ、こういった会話で個性のようなものを発揮できるのではないでしょうか。

われわれはこの「キャラ」を確認しあうことで、会話の継続を行っているのです。意味のない会話と一言にいっても、会話を続けるためにお互いのキャラとしての特徴を言い合ったりして、安心感を得られる、という意味で有意義な会話なのです。

多人数で話すとき、バラエティー番組のひな壇芸人のようなボケをして、司会者のようなツッコミをすることでコミュニケーションをとっていませんか? 飲酒して暴れる・下ネタをいう、それに対して介抱する・下ネタやめろなどという・さらに下ネタを重ねる、どうでしょう、身に覚えはありませんか?

「会話しているという状態の継続」が本質なので、ボケとツッコミのような予定調和な結果に安心感を得られるのです。逆に、悩み事だとか、誰もついていけないギャグだとかは「しらけ」を生み、場の空気を乱すのです。マジなことは誰も求めていないのです。ネットミームを発音し、ときには適度に言葉遊びをし、わかっていながらズレた答えを言い、ツッコミを誘い、発言権を相手に譲渡するのです。

 

 

 

少人数での会話もカラオケなのですが、こちらは雰囲気というよりも話の中身に重心が置かれると思います。

多人数での会話では、雰囲気重視であったり、話たい人が競争しあったり、譲渡し合ったりします。しかし、少人数、とくに1対1では会話の主導権は片方に傾くことが少なくありません。

つまり、「話しすぎる人」です。

この「話しすぎる人」は、自分ばかり発言しすぎてしまう「おしゃべりさん」と、自分のことばかり話してしまう「構ってちゃん」の2種類にわけられると思います。

「おしゃべり」さんは、カラオケでいうとマイクを渡さずに自分ばかり歌ってしまう人。「構ってちゃん」は相手に発言権は渡すのですが、トークテーマが自分の内容・お悩みばかりの人。

キャバクラなどの接待は「おしゃべりさん」を気持ちよくさせるためのものです。

よく「話し上手は聞き上手」という説をみますが、私はなんとも納得できていません。それって、自分ばかり話す人「おしゃべりさん」の存在を受け入れることにもなるからです。聞き上手になろう、と決心した側が損をくらうのはいかがなものかなと思うのです。自然の会話はキャバクラではないのです。

 

一方、相談というのはその構造的に片方が「構ってちゃん」にならざるを得ません。

そもそも、深い会話をする場合というのは、会話を通じて、相手の「キャラ」ではないパーソナリティを知りたい、自分のパーソナリティを知って欲しいわけですからトークテーマは自分・もしくは相手に関わることに偏ってしまうのは仕方ありません。

ですので、相談などの深い会話ではない場面を考えてみたいと思います。
不意に1対1になったときに、どうやって場をつなぐか、と考えるといいかもしれませんね。

 

 

 

じゃあ、どうすれば話が上手になれるのか、というところにもどってくるのですが。

自分ばかり発言せず、自分のことばかりテーマにせず、そして聞く側にも回り続けない。となると、けっこうしんどいですね。

ここで、解決策のひとつになるかもしれないものを本でみつけました。桃山商事の『生き抜くための恋愛相談』という本に書いてあったのですが、自分と相手だけではなく相手の関心事、趣味、コンテンツ、仕事など、パーソナリティ以外の部分の話をする、そういった無機物の第3者をテーマにすることで、自分のことばかり話すといったことから回避できるというのです。また、自分も相手も発言しやすくなり、一方的な立場にはなりにくいのです。そして、その会話を続けるなかで、相手の輪郭を知ることができると思います。

 

よく、会話を続けるためには相手を好きになれ、興味をもてとかいう説明を受けることがあると思います。ですが言葉そのままの意味ではなく、(相手はどうでもいいけれど)相手が興味をもっているコンテンツに興味をもつ、もしくは、これなら興味もてそうだなってものを見つけることを指しているのではないでしょうか。それこそ、会話術の王道、自分と相手の共通点を見つけるといった作業はこれに該当しますね。例えば、目玉焼きに何をかける? だとかそういった中身のない会話でもいいと思います。

 

 

 

さて、中身のある会話、つまり深い会話はお悩み相談の意味をもっているため「構ってちゃん」にならざるを得ないのでした。(それは悪いことではありません)

 

一方、中身のない会話は2つにわけられ、
すでに定められた「キャラ」という共通の設定やネットミームなどの共通言語で同質であることを確認し合うのが多人数での中身のない会話。対して、今はない共通点を探していくために行うのが1対1での中身のない会話でした。

 

おそらく話し上手な人は、「5人以上いるから、場のノリにあわせた中身のない会話をしよう」「3人だけど初対面だから共通点をさがすために中身のない会話をしよう」「なにやら不機嫌だから、聞きに徹して、気持ちを静めてやろう」といったギアチェンジがなめらかに行える人のことを指すのではないでしょうか。

 

 

 

私はなかなかできずに、「構ってちゃん」になったり、聞きに徹したり、もしくは話過ぎてしまうことがあります。気付いたときには、わって話しかけたり、相手にパスするようにしています。自然の会話はキャバクラではないので、相手ばかり気持ちよくさせず、自分ばかり気持ちよくならないよう、気を付けていきたいです。

 

 

 

「いき」と「コケットリー」

最近は九鬼周造の思想にめっぽうはまっています。そのひとつに「いき」というものがあります。

 

 

 

 

ここでいう「いき」とは、恋愛でいうと、気になる相手に近づきつつ、距離を保つような態度のこと。

 

「いき」は「媚態」「意気地」「諦め」の3つによって形作られます。

 

「媚態」とは、相手に近づき相手を自分のものとしてしまう態度。
ここでいう、相手を自分のものとすることそのもの、相手と自分を同一とすることを合同ともいいます。
俗な言葉でいえば、下心でしょうか。例えば、ナンパしてお持ち帰りしたいためにとるアプローチが媚態なのです。

 

「意気地」とは、相手との距離をとろうとする態度。自己を保つ強さ。
恋をすると、相手は私のことをどう想っているのだろうか、と意識してしまいます。それは、どうしたら相手に好かれるだろうか、と相手に従属し自己を失っている状態です。そうならない自己の強さ、武士道的な精神を意気地といいます。
メンヘラ状態では、私はこんなに想っているのに、こんなに尽くしているのに、あなたはなんで素っ気ない態度なのと、意気地が弱くなってしまいますね。

 

「諦め」とは、よい距離感を保とうとする態度。他者の尊重。
たとえ合同したとしてもそれが永遠に続くわけではない、合同したら一発逆転できるわけではない。自身の抑圧を恋愛が叶うことで払拭できるという独断な仮説、執着を諦めることです。

 

相手との合同を図りたいという媚態をベースに
・相手の言いなりにはならないと自己を守る意気地
・相手は自身の言いなりにはならないとわりきる諦め
この2つがあわさって「いき」が生まれるというのです。

同一視してしまうような、自分とともに時を過ごしてほしいような、そんな素敵な人でも。ある点から見たら重なり合っているかもしれないけれど、違うレイヤーで、ベン図ならはみ出ている部分もあって、自身とは完全に同じ存在とはならない。逆に自己を失って相手と完全に同じ存在となることもいけない。
そういった他者と自己の距離が保たれた状態で、なお合同を図りたいと思うことが「いき」なのです。

 

 

 

似たようなものに「コケットリー」という言葉があります。宮野はジンメルの言葉を用いつつ以下のように説明してます。

「イエスとノーの不安定な遊戯、承認の回り道であるかもしれない拒絶と、その後ろに、背景として、可能性として、威嚇として、取り消しが立っている承認を見せ」一直線に合同に向かうことなく、合同の可能性を示しつつ、駆け引きを行うことである。(Culture, energy and life ,2017)

多くの恋愛漫画にみられる、くっつくかくっつかないかの曖昧な関係をいうといっても過言ではないでしょう。はやく付き合っちまえよと思うやつです。こういった行いは、選択を引き延ばしし、手に入りにくい存在として自分を高価値にするのです。価値が高すぎると逃げてしまう可能性があるので、これは一種の賭けです。

例えば、素敵な人と付き合いたい気持ちがあって、相手がその気持ちに気が付いている「好きバレ」のとき。あえて気があるそぶりをされたり、○○してくれるんならいいよ、と有利な条件と引き換えにされたり、そこまで直接でなくとも「わざとだよ」と言ってみせたり、そういった焦らされがコケットリーなのです。

 

 

どちらも合同を願いながら、その可能性を提示させながら、一直線にそれをもとめないといった点で同じです。


コケットリーの特徴は、直接的に身体を強調させて相手を誘惑します。一方で「いき」な態度では、合同の事後を想起させるようなものであるといいます。

より熱い合同をもとめ、同一へ未来へ向かうコケットリー。
合同という無心な営みがあった後に互いを尊重できるような、過去へ向かう「いき」。

 

真剣で激しいものこそ価値の高いものこそよいという態度は、ひとつの形かもしれません。ただ、自由な世界はそれで苦しいのです。自己の欲望に忠実になるという媚態は肯定しますが、同一視しすぎて逆にとりこまれたり、相手を邪険にあつかったりすることから避ける、あえての制限を付ける強さも必要なのではないでしょうか。

私はしばしば他者の尊重を忘れて暴力的態度をとってしまうことに反省をしています。他者を下げ、自己の価値を相対的に上げてあたかも肯定しているような感覚を得たく、スポーツや勝負といったルールのうえでの戦いにとどまらず、自慢や知ったかぶりなど、何気なくマウントをとってしまいます。会話で言うと、一方的に話すといったことをするのはもちろん、聞きに徹するという行為も一種の取り込みです(話を聞いてやっているという態度が)。自己中心的に行ってしまうのです。

もちろんこういった行動を互いにし合うことでも、相和はゼロに近い関係を築けるかもしれません。

ですが、互いに尊重し合い、適度な距離間で、その距離感の存続を目的に、「いき」な刹那を楽しみたいとも思います。

friend+こそ、もっとも公共的なインスタンスではないか

VRCのインスタンスにはpublic、friend+、privateなどと種類があります。

公共というとpublicインスタンスを指す、と思っていたのですが、
friend+こそがもっとも公共性を感じるインスタンスなのではないか、と思っています。

 

「公共性を感じる」という言い方をしたのはちょっと理由があります。もちろんシステムとしてもっとも公共的なのはpublicインスタンスです。ですが、違う言葉でいうと「世間」を感じるのがfriend+インスタンスなのかなと思ったからです。

 

 

土井の文を引用します。

考えてみれば、公共の空間に居合わせた見知らぬ他人どうしは、まったく無関係に孤立しているわけではありません。たとえば、満員電車のなかでも視線が相互にかち合ったりしないのは、お互いに、いわば協力し合って意識的に視線をずらしているからです。私たちは、公共の場では不関与でいるべきだという規範に、じつは協力して関与しあっているでのす。これは、意味ある人間として他者を認めたうえで初めて成立しうる、いわば演技としての無関心です。

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

当時の若者について、以下のように述べています。

親密圏に居る人間に対しては、関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっているけれども、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しないほどにまったくの無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしているだけ――

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

 

VRCでいうと、publicインスタンスにいるfriendではないユーザーに対して、無関心で、意味のある人間として他者を認めていないのではないか、ということになります。

そこまではいかなくても、荒らしをするといった理由にとどまらず、アバターが好みではない、使用する言語が異なる、声が可愛くない、などといった理由からもコミュニケーションをとるに値しないといった値付けを行い、「演技としての無関心」すらも行わないこともあるのではないでしょうか。

 

 

一方でfriend+のインスタンスでは、「友達の友達」程度のつながりがあるために、好みではなくてもとりあえず会話しておくか、悪い評価はされたくないな、などといった気持ちになるのではないでしょうか。friend+にはそういう世間によって束縛される公共圏があると思います。

音量の減衰が微妙で聞き取りづらいなら距離をとったり、そういった場では他人の迷惑になるアバターを使用してはいけなかったり、マナーに近いものが無意識的に共有されていると思います。(逆に共有していない人を「空気が読めない」というのかもしれません)

 

前回のブログでも距離感について以下のように書きました。

距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。

 

 

invite+以上のインスタンスでは、招待というスクリーニングを経ているために、そういった世間を考える必要性が薄れています。つまりは親密圏を指すと思います。

 

 

friendのなり方が現代のSNS特有なのもあります。鈴木謙介著の『ウェブ社会のゆくえ』に従うと、とりあえずfriend申請を送りあとから仲良くしたい相手を選ぶ「引き算」の関係性になっているのです。そのため、friend≠友達であって、親密性を示す変数は時間の共有だとかinviteする/されるだとか外部のSNSでのコミュニケーションだとかそういった、VRC以外の影響を大きく受けると思います。

 

すると、friendインスタンスも顔見知り程度の人が来る可能性があるため、意味のある他者として迎え入れなければならないという意味で公共的ですね。friendの数が何百人何千人もいるユーザーはなんかはそう思っているのではないでしょうか。

 

friendという枠が可視化されるけれども、実態としては顔見知り程度のことがあるという現状は、「本当の友達」だとか「親友」だとか「気が置けない仲」にあこがれを抱いてしまいます。それは可視化されるべきものではないと個人的には考えているのです。ですが、どうしても不安に思ってしまうことに同意します。できることといえば、言葉以外の方法でそれを実感させてあげることでしょうか。

 

 

少し話がそれてしまいましたが、friend+という公共的なインスタンスで意味のある他者に配慮することは、われわれ(土井の本が書かれているときに若者だった)が苦手としていた行為です。ですが、最近の私はその行いをするのも自分にとって大切だなと感じるのです。

ディスコードやTwitterでの常時接続による重すぎる親密圏の人間関係で疲弊している現代に、つながりつつ、つながっていないようなfriend+での交流が癒しに感じることもあるのです。

 

 

『メタバース進化論』本当のコミュニケーションは私に合わない

バーチャル美少女ねむ 著『メタバース進化論』(技術評論社,2022)を読みました。

メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界

 

なかでも第5章、コミュニケーションのコスプレがおもしろかったので、読書の感想としたいと思います。

 

まず「コスプレ」という言葉について。前章でアイデンティティのコスプレについて以下のように述べています。

基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」として人生を送ることが可能になるのです。(p153)

これはアイデンティティについてですから、コミュニケーションに置き換えると、本章では以下のように展開されることが予想できます。

  • 受容せざるを得なかったコミュニケーションを覆すことが可能
  • コミュニケーションに自由さがある
  • 望むコミュニケーションを実施することが可能

 

この思考から、ある程度コミュニケーションに不自由さを感じていた、もしくは現在のコミュニケーションに不自由さがあるという感覚をもっていることがわかります。私もそういったものに苦手や嫌悪感を抱いており、とても同意します。

 

実際、本章では以下のように述べています。

メタバースにおいて関係性や行動が大きく変化するのであれば、介在するフィルターを恣意的にデザインすることによって、人と人のつながりや行動、ひいてはそれらの集合体である社会を大きく変化させることができるでしょう。あるいは、物理世界において介在していた、年齢、性別、肩書などのさまざまな「フィルター」を排除して、魂と魂による本質的なコミュニケーションを加速させ、より理想的な社会が実現できる可能性があるのではないでしょうか。(p201)

これを「コミュニケーションのコスプレ」と呼んでいるそうです。

まとめると以下の主張になるのではないでしょうか。

  • 現実社会・物理的な世界においては「フィルター」をとおしたコミュニケーションが不自由さをもっている
  • 「フィルター」をとおしたコミュニケーションは本質的ではない
  • メタバースにおいては、「フィルター」は自由にデザインすることができる
  • メタバースにおいては、「フィルター」を取り除くことができる
  • 「フィルター」を取り除いたコミュニケーションは本質的、理想的である

 

フィルター、本書の別の言葉を借りると非言語コミュニケーションについてこの後記述しています。具体的には、距離感、スキンシップ、恋愛、セックスといった例を紹介しています。

 

距離感の項目ではVR飲み会を例に挙げています。
乾杯をしたり、会話の輪ができていたり、3D技術によって作られた空間性によって相手との心理的距離感が空間的距離間として可視化され、お互いの距離が縮まると述べています。

zoom飲みが流行しなかったことや、実際に距離感が縮まったというデータ、女性アバターが「距離感を縮めるフィルター」であるといった考えを用いて支持しています。

 

スキンシップは距離感と相関があると紹介されています。
不快に感じる文化圏があると紹介する一方、こういったスキンシップを「心の触れ合い」と表現しています。

 

恋愛については、その性質は物理現実とは大きく異なっている部分も見受けられるといいます。
恋愛感情について物理性別は重要でないといった支持が多いデータや性格が決め手といったデータから、視覚的フィルターにとらわれずに内面と向き合えることが理想であると述べています。

恋愛やセックスといった性行動が最も根源的なコミュニケーションのプロトコルであるとしています。くわえて、コミュニケーションの「コスプレ」ができるのならば、自由にデザインをすることが可能なのであれば、プロトコルを書き換えることができるのではないか、そう締めくくっています。

 

まとめると、
メタバースでは現実世界の属性などを削ることで、それゆえに不自由なフィルターを通して行っていたコミュニケーションから脱することができるという主張でしょうか。
距離感やスキンシップといったフィルター(≒非言語コミュニケーション)、恋愛やセックスといった作法(≒プロトコル)が自由であるなら、それ自身も現実世界の常識を超えた、個と個のつながり合い、本当のコミュニケーションがとれる、というこでしょうか。

 

 

私はこの主張に同意できません。

 

まず、「本当のコミュニケーションというものがある」という思想がプラトン主義のようで似合いません。また、「メタバースでのコミュニケーションは自由である」といった主張が経験と合っていません。

 

私の知るメタバースでのコミュニケーションはもっとドロドロとしたものです。

 

恋愛やセックスといった、衝動的なもの、自分の中から湧き出るようなもの。そういったものを他者と共有しあう儀礼を根源的なプロトコルと呼ぶのであれば、それはそうなのかもしれません。

ただし、そういった内なるものをフィルターを介さずに、あるいはフィルターを自由に設定し行っていると主張するのであれば、それには反対します。

 

私が過去にあげたエントリやSNSでの言動からもわかるかもしれませんが、私はメタバースでのコミュニケーションに不自由さを感じています。

これは、本書の言葉を借りるのならばフィルターが不自由に設定されているということです。

 

例えば本書で例にあがっていたVR飲み会ですが

  • 乾杯の強要
  • 下ネタ
  • 少人数で輪になる

といった、現実と同様の光景が見受けられます。「いやだったらミュートすればいい」という自己責任主義的なノリを感じ、むしろこういったものが過度になっているとも感じられます。

乾杯のノリは権力ですし、下ネタはホモソーシャル同調圧力です。


距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。

むしろ、「仲の良さ」は距離空間ではなく、インスタンスの共有や時間の共有に依存していると感じます。話し合っているときの物理的距離ではなく、休みの日に一緒に遊びに行くような招き招かれの関係、ずっとLINEしてるような時間の共有が仲の良さを示しているように思えるのです。そういった意味で、現実とさほど変わらないのだと思うのです。

むしろ、空間が限定されているからこそ、現実より大切な人とそういったことをする傾向があるように感じます。

だって、近くで話してくれる人よりは、インバイトをくれる人の方が「仲の良さ」を感じませんか?

 

本書は、現実世界の属性を排除したコミュニケーション(本当のコミュニケーション)の理想を描いています。ですが、私の感じるバーチャルは現実世界の属性を強化させたコミュニケーションなのです。

現実とはまったくことなる何処か何かという仮想ではなく、現実の特徴をデフォルメし誇張し、まるで二次元のキャラクターとしてふるまう2.5次元なのです。

 

とくに、現実で空気を読まざるを得なく男性性を表現できなかった弱者男性が、目の上のたん瘤がいなくなったからと、その男性性を存分に発揮している場として感受しています。

 

本書で述べられている本当のコミュニケーションというのは抑圧からの反発であって、ベクトルの向きが180°かわっただけで、その軸は変化していないように思えます。

 

それ自体は悪いことではないと思いますし、私自身もしているところもあります。
ですが、これは自由ではないなと実感しながら楽しんでいるのです。

 

そうではなく、異なる軸への変化こそが自由に近いのではないのでしょうか。

そのためには、本書で言われているプロトコルは変化させずともよいと私は思います。
むしろ、より多くの他者と既存のプロトコルをとおしたコミュニケーションをしたり、得られるものへの感じ方が変わったり、そういったことがあるといいのかなと思います。

 

そうはいっても、現在のメタバースを書き表し1冊にまとめた業績には頭が上がりません。
私のブログの方が理想を語っているのです。

 

実際に面白い本なのでみなさん一緒に読んで感想を言い合いませんか?

 

【連載 土井ノート②】内なる他者のキャラ化、固定化

 

土井隆義 著の岩波ブックレット4冊を読みました。

その読書まとめノートを【連載 土井ノート】として記述していきます。

 

【連載 土井ノート】

  1. 『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)
  2. 『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』(岩波書店,2009)
  3. 『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(岩波書店,2014)
  4. 『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』(岩波書店,2019)

 

今回は2009年に発行された『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』についてです。

 

キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像

 

 

 

 

 

キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像

 

 

コミュニケーション偏重の時代

若者のグループ内でのコミュニケーション
以前……外部の敵に立ち向かうことで仲間から肯定的な評価を受けた
現在……グループ外部は他者性がない、圏外
⤷ グループ内での人間関係が活性を失い、敵へ向けていたエネルギーが発散されずグループ内での人間関係に圧力がかかる

お互いの関係を維持していくのに他者を利用することができない
⤷ 関係のあり方自体を自覚することによって維持せざるを得ない
⤷ ボケ・ツッコミのコミュニケーションによる予定調和な結果によってそれを自覚
⤷ 摩擦のないフラットな関係、「優しい関係」

 

多様性を奨励する文化へ
以前……学校文化を反転させた独自の文化に同調することによって自ら肯定感を担保
⤷ 学校文化という抽象的な他者からの反転=非行
現在……個々の場面で具体的な承認を周囲から受けることによって評価が定まる
⤷ ウケを狙えるか否かが自己評価に関わる
⤷ 身の回りの他者という具体的な他者からの評価に依存
⤷ コミュニケーション偏重

 

価値観が多元化し、人びとの関心対象が千差万別になった世界で、相手の反応を敏感に読み取ってつねに良好な関係を保ち、相手からの評価を得やすいように自分の個性を効果的に呈示し続けるのは非常に困難なことです。しかし、それは同時に、自己肯定感を保っていく上で必須の営みでもあります。そして、その営みをこなすために必要となるのは、なんといっても他者と円滑なコミュニケーションを営む能力でしょう。
スクール・カーストでの生徒たちの序列づけも、勉強やスポーツが得意か否かによってではなく、友達と一緒にいる場を盛り上げ、その関係をうまく転がしていけるようなコミュニケーション能力の高低によって決まっています。(p17)

 

memo

  • 外部に発散させることで安定化させていたが、困難になり、内部で不安定に
  • 関係性それ自体を再認識することで安定化→「優しい関係」
  • ウケを狙うことによって自己肯定感を得る

 

アイデンティティからキャラへ

アイデンティティ……いくども揺らぎを繰り返しながら、社会生活の中で徐々に構築されていくもの
キャラ……あらかじめできあがっている固定的なもの
・外キャラ……対人関係に応じて意図的に演じられるキャラ
・内キャラ……生まれ持った人格特性を示すキャラ
※ 内キャラ≠アイデンティティ

 

ある場面ではみとめられる価値も、別の場面では否定・無意味化されることが多くなった(価値観の多元化)
⤷ 一人の人間として多面的に接してくれることではなく、キャラを一面的に演じる方が負荷がかからない
e.g.) メイドカフェ
⤷ 外キャラを演じることによって不透明な関係性を透明化させている

・リカちゃん人形……ネオテニー化(幼形成熟
・大衆コミック……ストーリー展開よりキャラクターたちの造形描写でひきつける作品の増加
⤷ 役割分担娯楽「羅列されたエピソードの順番を入れ替えたとしても作品に影響はない」(荷宮和子
⤷ キャラクターに成長がないから
⤷ 内キャラの「本当の自分」はネオテニーや役割分担娯楽のように変化しないキャラクター像
いかに生きるべきかの羅針盤が存在しないため、不変不動な淳拠点として内キャラ

 

1980年代までの成長する社会……「私はどこへ行くか」が問われる
それ以後の成長の止まった社会……「私はどこから来たか」が問われる
⤷ 未来は現在の延長線上でしかありえないから

 

「生まれもった素質によって人生は決まる」という感覚が広がっている
⤷ 頑張らずにいい結果を出す方がかっこいいという価値観
前近代……身分制度によって抑圧され、やむなく希望をあきらめていた
近代……身分制度が撤廃され、自由化が進み努力と成長が賞賛
現在……「生まれもった素質」による宿命主義

たとえば、いくら天才的なピアニストであろうと、そもそも日常的にピアノに触れさせてくれ、定期的にレッスンに通わせてくれるような恵まれた生育環境になければ、その才能に目覚めることも難しかったでしょう。したがって、今日の新しい宿命主義も、じつは前近代的なそれと本質的に違ってはいません。作られた素質にもとづく待遇の違いを、合理的なものと思い込まされているだけなのです。(p36)

 

memo

  • 外キャラ……コミュニケーション円滑化のために固定的な人格像
  • 内キャラ……人生価値観のモノサシとして固定的で単純な人格像
  • 未来に変化を期待できず前近代的な宿命主義

 

キャラ社会のセキュリティ感覚

大人も子どもと相似
・親子関係……「友だち親子」双方とも「上から目線」を嫌悪し関係がフラット化
・学校教育……「サービス化」教師が「上から目線」でいるとお客様(生徒)を大切にしない不満といえる
⤷ 教育が新たに能力を育んでいく「指導」ではなく、生まれもった素質を開花させる「支援」に感じている
モンスターペアレント問題
⤷ 教師も「友だち」のようにフラットにふるまう

現在の日本を見渡してみれば、理解不能な相手をモンスターとみなす傾向は、なにも教師だけのものではないようです。この言葉がこれほど社会に浸透したのは、学校関係者を超えて一般の人びとの共感も得たからでしょう。今日では、立場の異なった相手と意見を戦わせて理解しあうのではなく、異物とみなして最初から関係を断とうとする傾向が強まっているようです。(p45)

 

包摂型から排除型へ
「少年犯罪者の矯正は可能と思うか」7割がそう思わない、刑事政策の厳罰化
⤷ 犯罪者の特性を社会的な産物とみなさず、生来的な資質とみなし矯正不能なモンスターと捉えるため厳罰により排除する

生まれた環境は、自分で選んだ結果ではありません。したがって、そこまで自己責任を負わされるのは不合理です。「環境に屈せずに努力すべきだ」という批判は、確かに一面では正論です。しかし、前章で天才ピアニストを例に挙げて説明したように、努力しうる資質もまた環境のなかで生まれていくものです。(p51)

 

memo

  • 大人もフラットな関係「優しい関係」を望む
  • 構造的な権威を「上から目線」として批判
  • 異質なものを排除する「優しい関係」は厳罰化からもみられる

 

キャラ化した子どもたちの行方

これまでの議論のまとめ
・以前まで
コミュニケーションしたい相手との間に不都合な存在を経由しなければならなかった
⤷ 心地よい人間関係を築くためには、同時に不都合な人間とも否応なく付き合わざるを得なかった
・近年

時間と空間の制約を超えて異質な人々がつながり合うことが可能になった
⤷ 不都合な人間を返さなくても同質な人びととつながり合うことが容易
・ネット

アバター……人間のキャラ化
⤷ 特定の情報だけを送受信し一面的な人格イメージを意図的に操作しやすい
アイデンティティからキャラへノイズをカットすることで「同質っぽさ」を作りやすい

 

常時接続
自己肯定感の揺らぎを手っ取り早く解消しようとして同質な人間だけで固まってしまいがち
⤷ 人間関係を異質な他者へと広げていく手段としてケータイを用いない
⤷ フィルタリングにより見知らぬ他者を規制することにより促進

 

したがって、彼らの犯行は、人生を悲観してといった単純なものではなく、自滅的な行為をとおして自分の存在を誇示し、その生の濃密さを実感したいという人生最大の賭けでもあったように思われます。どうせ自滅するなら、たとえ一瞬でも周囲から注目を浴びることで、その生の希薄さを帳消しにし、自らのキャラを際立たせたいという思いがあったように感じられるのです。(p57)

 

現在の若い人は現在の自分を絶対視してしまいがち
⤷ 生まれもったキャラと感じるようになっているから、将来もそうに違いないと思う
長い人生のなか、つまずくことはある

⤷ 異質な「不気味な自分」と出会ってしまう
以前……不気味な他者と付き合うことによって「不気味な自分」への対応策もまなんでいた

現在……同質な存在のみと付き合っているため「不気味な自分」への対応策がわからない
そもそも、いくつもの相互に異なる人間関係を多元的に営むことで複数の視点から自分を相対化できる
人間関係への強迫観念から解放され、真に自己の安定を得るには、一時的に自己肯定感が揺らごうとも、異質な他者と付き合っていかなければならない

 

「不気味な自分」
そもそも、自己とは対人関係の中で構築されていくもの

「不気味な自分」と向き合い、その生きづらさになたんでいる人たちには、そして、その原因を水からのうちに求めようとし、自己のキャラ化に走ろうとしている人たちには、そのまなざしを自らの内部へ向けるのではなく、むしろ外部へ向けてもらいたいと思います。(p61)

流動性を増す社会の中で価値観も多元化し、多様な生き方が認められるようになったのに、いや、だからこそ確固たるありどころのない存在論的な不安から逃れようよして、付き合う相手をキャラ化して固定し、そして自分自身もキャラ化して固定し、許容しうる人間の幅を極端に狭く見積もるようになっています。そんな隘路を乗り越え、人生に新たな希望を見出すためには、多種多様な人たちとの世代を超えた出会いと共闘がどうしても必要です。(p62)

 

memo

  • 常時接続により同質な存在と閉じたコミュニティ内でしか交流していない
  • 人生のつまずきによって自分の異質性「不気味な自分」と出会うが、コミュニティ内ではその異質性をさらけ出せない(排除されるから)
  • 多元的な人間関係を営むことにより自己を相対化させ安定を得るべき

 

 

 

【連載 土井ノート①】優しくない「優しい関係」

 

土井隆義 著の岩波ブックレット4冊を読みました。

その読書まとめノートを【連載 土井ノート】として記述していきます。

 

【連載 土井ノート】

  1. 『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)
  2. 『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』(岩波書店,2009)
  3. 『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(岩波書店,2014)
  4. 『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』(岩波書店,2019)

 

今回は2004年に発行された『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』についてです。

 

「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える

 

 

 

 

「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える

 

 

親密圏の重さ、公共圏の軽さ

この章ではこどもの事件から「親密圏」と「公共圏」について考察し、述べています。

 

以前の親密な関係……あえて演技を必要としない間柄
現在の親密な関係……「装った自分の表現」こそを優先させなければならない間柄
⤷ 装った自分の表現……相手との関係性を優先し、その維持のために自らの感情に加工を施す
↔素の自分の表出……自分の想いを優先し、それをそのまま発露すること

 

親密圏でのふるまい……「素の自分の表出」から「装った自分の表現」へ変化
公共圏でのふるまい……「装った自分の表現」から「素の自分の表出」へ変化
⤷ 公共圏での他者が不在、他者として認識していない
→意味ある人間として他者を認めた演技をしていない
e.g.) 最近の若者はマナーが悪い(他者を認めていないため素の自分が表出される)

 

親密圏の人間関係……「装った自分の表現」をし続ける
→重すぎる
⤷ ただひたすら何かにコミットし時間を消費する

 

「優しい関係」……対立を顕著化させない関係のこと
e.g.) 教室内の関係性など、メールやSNSは「優しい関係」を維持し時間を消費する装置

 

「優しい関係」からハズれるのはヤバいという意識がある
⤷ ハズれる異質としてといじめられる

 

memo

  • 公共圏では「素の自分の表出」、親密圏では「装った自分の表現」
  • 「装った自分の表現」を優先させ、異質な点を隠す「優しい関係」
  • ハズれないようにつながり続ける

 

内在化する「個性」への憧憬

キャラ的only oneへの強迫観念について述べています。

 

キャラクター……個人的なパーソナリティ
キャラ   ……装う姿、ベタな属性
素のキャラを求める ←引用

 

若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持ってうまれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥深く分け入っていくことで発見されるものです。自分の本質は、この世界に生まれ落ちたときからすでに先在していると感受されているのです。(p25)

もし自分の本質がよく分からないとすれば、それは自分の内部に潜んでいるはずの可能性にまだ気づいていないからだということになります。自分らしさをうまく発揮できないのは、自分が輝いていると感じられないのは、秘められた「本当の自分」をまだ発見していないからにすぎないのです。(p25)

 

個性を求める志向

社会的個性志向……他者との比較、差異によって個性を理解する感受性
内閉的個性志向……本源的に自己に備わった実態の発現過程として個性を理解する感受性

⤷「個性的な自分」は心や感情の動きに由来すると感じる
⤷ 心や感情の動きを身体感覚と同質のものと捉えている
⤷ 身体的な感覚を重視し、社会的な意味を軽視

 

感情や行為が妥当なものか否か、価値判断のモノサシ
以前……社会的な基準に照らし合わせていた→〈善いこと being good〉
現在……自分の生理的な感覚や内発的衝動に照らし合わせて決める→〈良い感じ feeling good〉
cf. ベラー(ロバート・ニーリー・ベラー)

 

行為はそれ自身では正しいとも間違っているとも言えない。ただ、行為のもたらした結果が、また行為が引き出したあるいは表出した『いい感じ』が行為の善し悪しを決める。(p31)

 

一方で、
以前の心情……安定的・継続的、言葉によって構築され時間を超える
現在の心情……刹那的・生理的、衝動に依存した直感で一時的
⤷ その場その場によって異なるキャラを装う
⤷ 自己意識が断片化、拡散する
⤷ 一貫したアイデンティティの欠如

 

「いま、ここ」にしか生の実感がない
⤷ 「いま」を濃密な時間で埋め尽くさないと安心できない
⤷ 自分の個性は普遍的な実在、にもかかわらず、断片化して個性を実感できない
⤷ パラドクスによる焦燥感

もともと特別なOnly oneとうたうSMAPの『世界に一つだけの花』が大ヒットしました。これは、「そのままの存在でいいんだよ」という癒しの歌のようにも聞こえますが、見方を変えれば、どこにも「特別なOnly one」を見いだせない自分には価値がないのかのように思わせる煽りの歌ともいえます。(p37)

 

「無限性の病」
⤷ 「個性的であること」へ休みなく駆り立てられ、強迫神経症的な不安におののいている
⤷ 欲求不満とは異なり最終のゴールがない
⤷ むしろ追いかければ追いかけるほどゴールもレベルアップする無限後退
cf. デュルケム(エミール・デュルケーム

 

memo

  • 個性とは成長させるものではなく、元々あって開花させるものという「内閉的個性志向」
  • 善し悪しを内発的衝動で決める、〈良い感じ feeling good〉
  • 〈良い感じ feeling good〉は刹那的なもの由来のため個性の根拠も刹那で、むしろ個性を実感できない、無限後退な焦燥感

 

優しい関係のプライオリティ

純粋な関係(古典的なもの)への期待はあるけれども、「優しい関係」をしてしまうことについて書かれています。

 

価値判断のモノサシが状況依存的
⤷ ほんとうにこれで合っているのだろうか……という不安が絶えず残る
⤷ 周囲の身近な人間からたえざる承認を必要とする
⤷ 刹那の安心を得るために、お互いに傷つけあわない程度に、表層的に他者とつながっていたいと願う

 

(言葉ではなく)生理的な「自分らしさ」を求め、内発的な衝動の共有を重視
→他者を自分と同質的な感覚の延長線上としてしか認識していない
⤷ 〈良い感じfeeling good〉 を共有できない人間とは関係を築けない
⤷ 〈他者〉が自己の鏡になるような現実感
cf. セネット(リチャード・セネット)

 

思想や信条を媒介せずに内発的な衝動だけに依存した人間関係
⤷ 「素の自分」と「演じている姿」に齟齬がうまれズレが生じる恐怖(自分も相手も)
⤷ つねに関係性の破綻の火種が潜在的に含まれている
⤷ 対立点を顕著化させない関係=「優しい関係」

 

自己を鏡像的他者からの承認により成り立たせているという共依存
⤷ この関係性に破綻が生じたとき、その関係性から撤退する
e.g.) ケンカしないで即ブロ

親密圏においても、「素の自分を出したい」という欲はあり、それこそが真実に近く、信頼でき、真正な関係
⤷ かなりのハードルがある

 

memo

  • 〈良い感じfeeling good〉 を共有できない人間とは関係を築けない
  • 「素の自分」と「演じている姿」に齟齬がうまれ(〈良い感じfeeling good〉ではないかもしれない)ズレが生じる恐怖から「優しい関係」
  • 「素の自分を出したい」という欲があるがズレの恐怖により動けない

 

 

本書末尾にもありますが、わたしたちは道徳の時間に『心のノート』を使用してきた世代です。

そこには「自分の心に向き合い、本当の私に出会いましょう」といった文言が盛り込まれています。

こういった価値観の刷り込みが、もしかしたら今のわたしたちの生きづらさの原因のひとつなのかもしれませんね。

 

好きな気持ちはそのまま

お題「大失恋をしたときどう立ち直りましたか?」

 

私は惚れっぽいのか、何人もの相手を好きになったことがあります。お付き合いした相手も多くはないですが複数人います。

いわゆる「本命」の相手との失恋を考えたとき、ぱっと思いつく相手が2人います。

 

1人目 相手を大切に

この方とは付き合ってしばらくしてから別れました。レトロな価値観が合い、ほかの人と話せなかった話題を気兼ねなく話すことができたので、とても楽しかったです。

別れを告げられたそのときは、なんとしても引き止めたく、躍起になっていました。「なんで別れるなんて言うの。私は好きなの。ダメなところ言ってよ、なおすから」

でも、そういった言葉は自己中心的な発言だったと自責しています。

ほんとうに好きなのであれば、相手の幸せを願っているのであれば。相手がもっとも幸せになる選択肢を応援するのがベストなのではないでしょうか。

その衝動で出した言葉は暴力的で、自分の手元から離れるのが嫌なだけで、相手のことを思いやってなくて、自分の付属品のように扱っていたように思えます。支配的な愛情を向けてしまっていました。他人をコントロールしようとしたのです。

数日、あらためてそう考え。承認欲求や性欲や愛情やフラストレーションのやり場として関係性を続けたいという下心を素直に反省しました。好きな気持ちはそのまま、相手、その個人が好きだったのだと。パーソナリティや個性を尊重するのがほんとうの好きという気持ちの表現なのではないか。そう思い、立ち直ることができました。サークルでの関係や付き合う前のように冗談を言い合う関係を、少しですが、続けられました。

 

2人目 自分を大切に

この方とは告白したときに振られました。サブカル趣味が合い、時間をともにするたび、どんどん好きになって。恋愛感情を抱かずに趣味の友達として付き合い続けられたらなんて素敵なんだろうと思っていました。

それでも、パートナーになりたいという気持ちが動いてしまい、つい、告白してしまいました。

結果は、タイミングが悪かったと、もうその人には交際相手がいたのです。

1人目の場合とは違って今回はすべて私が悪いのです。とても辛いのですが、関係性の変化を持ち出したのは私のほうなのです。

もちろん今回も、相手個人を尊重して、私より幸せになれる選択肢を応援したいのです。それは一緒です。

しかし、相手の交際相手の情報が少ないために「私と一緒にいた方が幸せだったと思う」という未練でいっぱいになってしまいます。ですが、相手には付き合っている関係によって生み出された親密性で勝てません。よーいドンの実力勝負だったら勝てたかもしれませんが、時間がそれを許してはくれません。そして相手はラブラブ期の真っ最中なのです。

ですのでこの場合は、ほかのことに打ち込み、自己を確立して自身を保護するようにしました。私の趣味はなにもサブカルだけではありませんので、ほかの趣味に没頭し、サブカルに偏っていた自己安定の土台をならしていきました。代替だったり昇華といった行動ですね。

 

 

 

人を大切に

1人目の場合は相手個人を尊重、2人目の場合は自分個人を尊重して、大失恋から立ち直りました。

「ほかに好きな異性を探す」であったり「相手の悪口をいう」であったり、逃避や合理化によって立ち直ることももちろん大切です。ひとつの防衛ですのでその手段は否定しません。

ですが、せっかく好きになった自分の気持ちに嘘をつかなくてもいいと思います。

これは綺麗ごとかもしれません。でも、わざわざ汚い人間にならなくていいと思うんです。好きな気持ちはそのままにして、個人を尊重し互いに幸せに向かえばいいと思うのです。

 

むしろ、個人を尊重していなかった恋愛とは未熟であったと、そっちを反省しています。価値観の合う、尊敬・尊重し合える相手ができてはじめて「好き」って言えるのではないでしょうか。