転生の可能性

以前のブログで、転生可能性が自己愛のプログレッサーであるのではないか、と書いたことがあります。

 

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長い記事だったので、あらためてまとめてみます。

 

 

ひとつは自己愛

ここでいう自己愛とはコフートの話でした。自信や自己評価といったものと言い換えることができるものでした。これは鏡映自己対象、理想化自己対象、双子自己対象によって満たすことができるという論でした。

悩めるわれわれは、この自己愛が満たされてない状態にあるのではないか? という仮説です。

 

 

ふたつめは小集団

固定メンツというサークル、内輪という世間のことです。界隈といってもいいでしょう。そこではスクールカーストに似た閉鎖的な空気感があるのではないでしょうか。もしそうであれば、維持していたキャラが崩れると評価がガタ落ちして、界隈で認められなくなるのではないか? という仮説です。

 

 

自己愛と小集団の仮説から

小集団の構成員を自己対象にして自己愛を満たしているのならば、質の低い自己愛になってしまうのではないか、ということが考えられます。

言い換えると、固定メンツの内輪ノリだけでは、褒められる・尊敬する内容や相手は限られてしまって、そこでは十分に満たしきれていないものがあるのではないか? 真の個性ではなく抑えられた「キャラ」として演じるだけでは十分な自己愛が満たせないのではないか? という問題をあげています。

 

 

それに対して界隈を移動することがひとつの対応策だろうと提案しています。

 

 

結びを格好つけて書いてしまったのですが、読みにくいかもしれないので、補足です。

リアルとバーチャルの連続性、むしろスクールカーストなどリアルでのイニシエーターが根にあり、

VRChatでわれわれが過ごしている界隈の世間は、とくに空気であったりイデオロギーであったり、リアルと地続きです。

例えば、学生時代のスクールカーストのようなキャラを作り合う空気の読み合う関係が今でも続いているのではないでしょうか。

イニシエーターとは腫瘍の分野でいうDNA損傷物質で、いわゆる起爆剤です。

 

バーチャルがそのプロモーターとして役割を果たしてしまっていると、一連の流れを記述し終えたときに感じました。

VRChatという2.5次元はよい意味でも悪い意味でもデフォルメされるものです。

バーチャルだから今までになかった自由な人間関係なのだ、というわけではなく、むしろスクールカーストな空気感がデフォルメされ、強化されているのではないでしょうか。

プロモーターとは、腫瘍の分野でいう作用促進剤です。いわゆるブースターです。

 

そこでは転生可能な流動性が自己愛のプログレッサーとなるのだ

界隈を変える仕組みとしての転生。または、「転生をしてもいいんだ」という、転生しない方が偉いという先入観を捨てること。もっというと、ちょっとくらい失敗してもいいんだということ、キャラにあっていてもしんどいことはしなくてもいいこと、そういったことの再確認が自己愛をより満たせる方向に進むのではないでしょうか。

プログレッサーとは腫瘍の分野でいう遺伝子変異の増加剤です。よい方向へ転換することを願って比喩としました。

 

 

さて、ここまでが以前の記事で書いた内容です。

 

 

文化系トークラジオLifeで、SNSについて以下の議題があがっていました。

そんなことを考えていたときに出会ったのが、ボリス・グロイスの『ケアの哲学』(河村彩訳、2023年)でした。この本では、たとえばSNSの投稿のような「自分に関するデータ」のことを「象徴的身体」と呼び、生身の身体の延長にあるものと捉えています。そしてもうひとつ重要な概念が「セルフケア」です。これは、国家の福祉に代表される、他者からもたらされるものとしての「ケア」に対して、自分が自分のことを調整していく、「自己への配慮」(フーコー)に近い概念です。

 

この本では、数々の歴史的な哲学者の議論を振り返りながら、「ケア」と「セルフケア」の対比が語られるのですが、僕はこの本から、「いまやSNSで情報を発信したり、あるいは受信したり、いいねしたりすることは、セルフケアの一部になっているのではないか」

 

これに一部影響されて書いた記事が以下のものです。

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ここで、

VRChatはSNSとしての不十分さがあるのです。そして他のSNSによって補完されている面が多いのです。

といって書いたとおり。自分に関するデータは蓄積されないので、見かけ上象徴的身体が薄れているのではないか、と思うのです。

 

 

転生することは象徴的身体の損失です。ですがVRChatではそれが薄いのならば、転生は意外と簡単にできてしまうのではないかと思うのです。

もちろん、システム的な意味ではなく、気持ちの面です。

 

サブ垢や裏垢をもつことにうしろめたい気持ちを抱く人も多いと思います。ですが、VRChatでは意外と自身の中で受け入れられるのではないでしょうか。

 

 

さて、そうなると次の課題がみえてくると思います。新たな界隈への加入ですね。友達作りといってもいいでしょう。自分の居心地のよいイツメンを探すことです。

このことについてはまた考えるとして、ひとまずのまとめを。

 

 

転生は悪いことではないし、転生は意外と簡単に受け入れられるものです。……とは言い切れませんが、少なくともその可能性はあるのではないでしょうか。

ですから、今のアカウントで「失敗しちゃったな」と思ったとき、いざとなったら転生しちゃえばいいんだ、と思うことで少しは気が楽になるのではないでしょうか。

 

 

以前のブログの焼き増しですが、あらためて。

 

VRChatでイベントキャストをドライに推す(ジャニオタとブックオフから)

以下ツイート群を読んで、ジャニーズ問題から推しの構造を考えるようになりました。

 

 

もともとの意味とは別に、推すという行為にある種の錯覚があるというのです。アーティストやタレントを社会的に勝者にすることによって、自分たちも勝者になれるという投影が。そういった人たちを応援する活動は経済活動ですし、社会的勝者とは経済的な意味も十分に含むでしょう。

個人的に勝者気分へ浸っていることは別によいのです。ですが、経済的支援を行っていると主張することで勝者であると棚に上げてしまうのはいかがでしょうか、と思ってしまうのです。同じような意見のポスト(ツイート)をみつけたので引用しますね。

 

 

 

 

いやしかし、推すことが経済的支援になっているのは事実ではないかという指摘もあるかもしれません。ですが、例えば書籍であれば以下のような推し―推されの関係性があると思うのです。

 

 

 

 

ここまでを少しまとめると以下のようになるでしょう。

推すという行為をするとき、推す側は推される側へ投影を行っている。それは、推される側が社会的に成功することで自身も成功したように感じることである。


だが、錯覚であるにもかかわらず、自身が成功したかのように、成功させたかのように、投資したかのようにふるまうことがある。それをもって正当性を主張するのはいかがか。

 

そもそも推すという行為に経済活動が伴うという構造がそれを錯覚させているのではないか。経済活動を伴わない推す行為として、古本屋で書籍を購入することでも推すことはできるのではないか。そういった読者―著者の関係、推し―推されの関係を淡くてドライな関係と表現している。

 

 

淡くてドライな関係を考えるために、推すことが必ずしも経済活動を伴わない関係をとりあげようと思います。

そのひとつがVRChatイベントキャストの推し―推されだと思うのです。

 

 

ただし、推しという構造的には同じだと思いますので、既存の枠を当てはめて、あらためて淡くドライな関係を考えてみましょう。

 

 

まずは経済活動の有無です。

基本的にVRChatイベントキャストを推すことに経済活動は伴いません。イベントはほとんど有志が行っているもので基本的に無料です。推しのキャストができて推すと表明し、推しに会いにイベントに通うことにお金はかかりません。そういった意味で淡くドライな関係に近いかもしれません。

ただし、キャスト個人への感謝をこめてAmazon欲しいものリストからプレゼントを贈るといった行動をすることはしばしばあります。こういった行為は既存の濃くウェットな関係に近いでしょう。

 

 

社会的支援はどうでしょう。

VRChatでの社会的地位というと、人気や質のよい交流でしょうか。これについては以前にブログで考察したことがあります、というかこのブログ全体のテーマでもあるかもしれません。そこの詳細はいったん不明のまま、仮置きで考えてみたいと思います。

人気や質のよい交流の支援というのは、なかなか難しいことでしょう。もちろんイベントに会いに行って、ある程度認知される客としてふるまうことによって、キャストが人気者になることはできることでしょう。しかし、VRChatterとしてイベントだけをやっている人は少ないのです。むしろオフのときこそ、選択的で質のよいと思っている人と居るのではないでしょうか(イベントは交流する相手を自身で選べないので)。

つまりはオフのときこそVRChatでの社会っぽさがあり、そこを支援できているかというと、やはり一般の推す側ユーザーでは難しいでしょう。

 

 

となると一見淡くドライな関係にみえてきそうです。

 

 

一般的な推す側は、推すことによる成功錯覚や、公式からの供給、ファンサによって報酬を得ます。VRChatでは成功錯覚や公式からの供給はほとんどなく、ファンサがある程度でしょうか。

先にも書いたとおり、ファンサが行われるのはイベントのロールプレイ上であるはずです。そのため、いわばオンのときなのです。推し―推されの関係は報酬を含めてイベントの中で完結しているのです。しかし、推す側のユーザーとオフで個人的に会うということはVRChat上では日常的なことです。イベントおつかれさま、とfriend+のインスタンスで話すなどよくあることです。

つまり、オフでイベントキャストと会うことは個人的な行為なのにもかかわらずファンサのように感じてしまうのです。そのことを混同し嫉妬してしまうと、ドライというよりはウェットになってしまうでしょう。

 

 

ということは、ドライな関係は報酬を受け取るようなものではないのではないでしょうか。

 

 

そもそもアーティストやタレントやVtuberなどある程度推し―推されの成熟した関係で用いられていた言葉をこちらでも適用することに不十分さがあったのかもしれません。ですが、似たような感情を言語化して運用していることは素晴らしいことです。

この未成熟ながら、支援して報酬を受け取るというような枠から外れた、別の形の推し方が淡くドライな推しなのではないでしょうか。そう考えると、われわれはまさに部分的に実践しているのかもしれません。なかなか、難しいんですがね。

 

 

ネガティブな人が好き

SNSの投稿にはハッシュタグだけでは表せない属性があります。それが感情です。画面スクロールでサッと目に入れる間に感じるものとしたらポジティブさ/ネガティブさでしょう。

もちろん、ポジティブな投稿は人をポジティブにさせる効力があり、ネガティブな投稿は人をネガティブにさせると思います。そして人を不快にさせないほうがよいとも思いますので、ネガティブな投稿は慎むべきです……

……という結論にはならないのです。

 

 

 

ポジティブの否定

情報

人は刺激のない情報だけでは満足しません。例えば、いつでもX(Twitter)の投稿からニュースが見られ、ネット配信ではニュース専門のチャンネルがあり24時間情報を得ることができます。そうなると既存のメディアであるTVの視聴量が下がり困ってしまいます。そこでTVでは刺激の強い内容や、インターネットを見ている層と共感を得られる内容を製作します。インターネットで人気の情報をTVで紹介する逆輸入的なものを見たことはありませんか?

ネガティブな投稿には刺激があります。ショッキングな内容かもしれません。見たくないかもしれません。ですが、そういった内容を目にすることでポジティブな投稿のポジティブさが保たれるのです。ポジティブな情報ばかりでは、どこを超えればポジティブと判断されるのかという閾値を上げてしまうのです。

 

投稿から思考

投稿のせいにしていますが、自己の中にネガティブな思考さえあれば、ポジティブさの閾値は上がらないのではないか? とも思いませんか。

文字に起こして投稿する、といった一連の行為をすると、思考も共振してしまいます。ですので、ポジティブな投稿を続けることはポジティブな思考に暗示していることと変わりません。

 

 

ネガティブの肯定

疑うこと

ネガティブさは現状への不満です。疑うことは学びの基礎ですから、なにも悪いことではありません。知的行動です。

逆にいえばポジティブさは現状への満足です。身体・感覚としては現状に不満をもっているのにもかかわらず、「ネガティブはダサい、ポジティブでなければ」という気持ちになってしまうと、現状を受け入れてしまい、ねじれが起こって疲弊してしまいます。

 

SNS疲れへの処方箋

ポジティブさは現状への満足ですから言い換えればリア充的なものです。SNSリア充アピすると言い換えてもいいでしょう。FacebookInstagramで理想の自分を構築していきリア充アピールをし続けること、まわりのそういったキラキラな投稿を見ること、これらがしんどく、SNS疲れといわれてきました。

充実していることが常時なわけありませんが、見える世界はみな充実なのです。そうなると自身が不十分に思えてしまうのも無理はありません。そして、投稿という形で積み上げてきた仮想自己と自信の不十分さの齟齬がさまざまな負の感情を生み出すのでしょう。不十分な人間という証拠を自身の投稿に残すことでその仮想自己をリアルなものに近づけられないでしょうか。

 

 

重さとタスク

ここまでネガティブな投稿を肯定し続けました。ですが、重い投稿は対応に困るというのもあるでしょう。この「重い」投稿によって、お前のことなのにSNSに投稿して、俺に言うなよかまってちゃんか、みたいな感想をもってしまうでしょう。

こういった感想は一部正しく、確かに投稿者の事情なのでしょう。しかし、かまってちゃんか(もしくはわざわざ人前で言うなよ的な)感想は、そう思っている時点で受け手のタスクになっている節があります。別に受け手のまっとうするタスクではないので、冷たい言葉ですが、放っといても大丈夫なのです。

私もヘラツイをよくしますが、書くこと、誰かが見ていることに意味があって。反応してくれたらやや嬉しい。けど、無理になにかしてほしいわけじゃないんです。

 

 

 

 

ポジティブとは現状満足です。環境への満足は上記で述べた通りですが、自己についてはどうでしょう。今のままで十分いいということでしょうか。少し違っていて、自己分析のような診断をしたり占いをしたり、過去の功績を見直したり、自身の価値を認めることがポジティブで現状的でしょう。つまりは、自身の中になにか原石のような「アイデンティティ」があって、それを掘り起こして、磨いているわけです。

ネガティブな現状不満の立場ですと、自身の中には「アイデンティティ」はなくって、常に悩み、自己の一部を否定しながら絶えず形を変えていくでしょう。これからの不安という伸びしろですから、何も焦ることはありません。

 

私は自分が何者か説明できて、メンタルタフネスで、悩んでいる人を元気づけられるような人間には、少なくともなりたくありません。

自分を説明することなんて到底できなくて、メンタルは弱くて、悩んでいる人とは一緒に悩んでしまう。けれども物事に敏感でありたいし、そういう人が好きです。

お題「夏に聴きたくなる音楽と言えば」

お題「夏に聴きたくなる音楽と言えば」

 

このアーティストの曲を聞くと中央線沿いのような郊外をイメージします。人が集中するわけでも閑散としているわけでもない夏の郊外を想起させるこの曲からも、過ごしやすさを感じます。大学の夏休みにドライブしながら聞きたい曲ですね。
cero / Summer Soul

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過ごしやすい夏というと、夜の涼しさに連想できるのではないでしょうか。恋人との二人で夜の散歩をしてさ、こういう曲を口ずさみたいなって思うわけです。コンビニエンスストアで缶ビールを買ってね。2曲続けて紹介したい。
きのこ帝国 / クロノスタシス

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フレンズ / 夜にダンス

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夏夜といえばやっぱりこの曲。夏の夜って外に出る時間もあってか、昔のことを考えてしまうんですよね。そして昔の人のことって意外と覚えてるんですよね。思い出すきっかけは、パっとしないものかもしれないけれども、その記憶は確かに大切に保管してあるんです。ひとりで、しんみりと、エモにひたりたいときに聞く曲です。
indigo la End / 夏夜のマジック

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夏夜のマジックは「君の方が僕より夏が好きだったね」と夏好きな子でしたが、「夏がだめだったり セロリが好きだったりするのね」と夏嫌いな子の歌だってありますよ。このなんていうか、不器用っぽさもいい歌ですよね。

山崎まさよし / セロリ

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そんな恋心が揺れる季節なのですから、夏のせいにしてしまいましょう。私としては、学生時代の気持ちはこんな感じでした。それくらいダメンズを投影している曲です。

クリープハイプ / ラブホテル

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歌詞の語彙が心地よい声とで奏でる和のポップスといったら吉澤嘉代子。個人的に遠出をするなら夏かなと思います。深夜のサービスエリアってなんかいいよね。時間がちょっと止まったような感じもあるし、みな疲れているのがわかるからはしゃいでないし。なぞの心地よさがあります。

吉澤嘉代子 / サービスエリア

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「SNSとしてVRChatを分析する」を読んで

 

思惟かねさんのnote(以下、本記事)を読み、
あらためてVRChatとSNSについて考えてみようと思います。

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私たち本記事ではVRChatを既存のSNSと比較しています。LINE、X(Twitter)、Instagram、Tik TokのSNSを利用目的・グローバル/ローカルで要素分解し、これをニーズをもとにフレームワークを使って比較と分析、VRChatはどうか考察をしています。非常に面白かったです。

本記事はマジョリティの一般層とくにZ世代をターゲットに新規開拓をテーマにしていました。それに対して、私自身は原住民ですので、原住民の肌感覚を書き記していこうかなと思います。

 

原住民のボリュームゾーンは20代~30代だと思いますのでZ世代よりも少し上の世代となるでしょう。私たちのSNS感覚は、思春期のころに個人ページやブログを経て、ガラケーの時代にmixi、モバゲー、gleeなどで芽生え、前略プロフィール黒歴史になり、震災後スマホが普及し大学生や社会人になってLINEやTwitterFacebookを使って友人とコミュニケーションをとることで成熟し、平成が終わるころから知らない人とマッチングアプリであって、知ってる人とは今でもLINEで連絡とり続ける、Instagramに関しては電話の代替にも応用している。そんな感覚が共有できるでしょう(平成が終わるころから――を共有できない人もいるかもしれません)。

 

本記事はSNSの利用目的を「情報収集」「娯楽」「交流」「発信」の4つに分けています。私の場合はそもそもこの利用目的というのが曖昧と感じます。結果的にその4つに集約されているということはもちろんあるのですが、SNSを利用しようと試みる動機は別のところにあるかと思うのです。というのもなんとなく「つながっている」という意識が欲しくてやっているところがあります。そういう意味ではローカルな交流に当てはまるのかもしれません。ですがそれとはちょっとニュアンスが違うかなとも思うのです。

 

TwitterFacebookInstagram、Tik Tokは機能として「発信」がメインでしょう(こちらのグループを投稿型SNSとします)。発信というフォーマットが先にあって、その他の目的やグローバル/ローカルの差が後から生まれるのでしょう。例えばつぶやきをみた人が面白いと思えば娯楽になります。例えば鍵垢を使えばローカルなものにできるし、そうでなければ、RTなどすればもっとグローバルなものになります。

 

一方でLINEは「交流」の機能がメインになると思います。本記事にもありますがDiscordなどの通話アプリもこれにあたるでしょう(こちらのグループを通話型SNSとします)。LINEは本記事に書かれている通り複垢が難しく、電話番号の役割を担っているとてもローカルなものです。対してDiscordなどは比較してグローバルなものともいえるでしょう。

 

どちらも「つながっている」感があります。通話型SNSは会話によって自己をそのままぶつけてコミュニケーションしているので、わかりやすく「つながっている」感があります。投稿型SNSは投稿に対しての反応はもちろん、堆積した投稿が自己を形成するように思え、それをみた他者が反応してくれるところに「つながっている」感があります。そういった「つながっている」感の取得が先行して、娯楽や交流などの目的に続くのかなと思います。

とくにわれわれ世代がSNSを利用している感覚があるのは後者、投稿型のほうではないでしょうか。

そしておそらく、ローカルな交流をしているんだなと俯瞰してわかり合える感覚、これが「つながっている」感なのではないでしょうか。

 

まとめると、SNS利用の動機は「つながっている」感であって、SNS利用の目的はローカル(一部グローバル)な「発信」と「交流」になるのでしょう。

本記事の言葉を使うのであれば、①親しい友人との交流(ローカル)の重視と③ローカルでの気軽な発信による交流の活発化にあてはまるのではないでしょうか。

 

対して「情報収集」や「娯楽」は別のプラットフォーム、ニュースサイトやYouTubeNetflixを使うことが多いのではないでしょうか。

もちろん、Z世代でいう情報が流れてくるという感覚もわかります。なぜなら、マスメディアの公式アカウントがSNSにあってそれをフォローしたり、RTでまわってきたりしたら自分のTLに流入するからです。でもわれわれの世代がSNSをやっている肌感覚としてはこれは当てはまらないのかなあと思うのです。

 

 

 

さて、私はVRChatをどのような肌感覚で使っているでしょうか。

 

これは本記事でも指摘されていることですが、VRChatはSNSとしての不十分さがあるのです。そして他のSNSによって補完されている面が多いのです。

例えば、イベントの画像や感想をX(Twitter)に投稿することが多いでしょう。これはVRChatの機能だけでそういった感想の共有、グローバルな発信ができないからです。本記事の言葉でいうところの⑤機能別での複数SNS併用はすでに原住民が十分にしているのです(本記事ではシームレスな移行ができないことを指摘しています)。

 

逆に、この不十分な機能が仮想世界という感覚を作っているのだろうと思います。現実世界だって人と人が会って話をするだけしか機能はありませんからそれと似たようなもので。現実世界で今日あったことを発信するSNSと、VRChatで今日あったことを発信するSNSが同系統である、こういったことが結果的にではありますが仮想世界っぽさを演出しているのではないでしょうか。

現実世界では、LINEで予定を決めて、写真を撮ってInstagramにアップする。
VRChatでは、Discordで予定を決めて、写真を撮ってX(Twitter)にアップする。
こういった対比があるので、現実世界の対になる概念として仮想世界だと認識することができるのでしょう。

 

これがたしかにSNSなんだけれども、既存のSNSと違うよなあという感覚ではないでしょうか。

 

 

 

また、本記事④効率重視・受動的な利用傾向について。
タイムパフォーマンスといわれ、時間を貨幣として消費活動をしているのはわれわれも同じだと思います。そのため逆説的にVRChatに特別性がうまれるのではないでしょうか。
例えば、いつも節約している人が給料日に贅沢なディナーを食べるなんてことがあるでしょう。お金をケチっている人が贅沢だなと楽しみを求めることは、お金をケチらないことなのです。

つまり、タイムパフォーマンスを気にしている人が贅沢だなと思うのは、時間を気にしない、タイパが悪いところに身を置くことなのです。
家で倍速で映画がみれる社会において、映画館にわざわざ行き、等速で映画をみるのは、贅沢だからでしょう。

こういった贅沢性、「ホンモノ」感、オーセンティシティ(authenticity)がVRChatにはあるのではないでしょうか。

 

現実世界では、新しいSNSであるBeRealなどがそれにあたるのではないでしょうか。

 

 

 

Z世代の新規開拓は本記事の著者にまかせるとして。われわれ原住民がVRChatを利用している肌感覚として。
生やコミュニケーションなどさまざま現実世界では享受することが難しかった物事に対して、オーセンティシティのあるものとして経験することができ、かつそれを通話型SNSを通して企画したり投稿型SNSを通して感想を言ったり、現実世界と同様のフォーマットを用いて二次的に消費し「つながっている」感を得ている、そんな肌感覚なのではないでしょうか。

Z世代には学校というつながりがありますが、それを卒業した大人たちがそれでも人とつながっていたいときにVRChatを使っているのが私の感覚だと思います。

 

何者かになりたい

私は「何者かになりたい」という欲求を肯定します。
そもそもこの欲求は文字通りの意味を超えた複雑なものだと思っています。ですので、これらに関してのいくつかの批判はベクトルが異なるものだと感じます。悩める人はそのような意見に負けず欲を求めてほしいです。

 

だって、素直に、正直に、何者かになりたいじゃないですか。
そんな青臭くもエネルギッシュな感情を、誰の言葉を借りたのか元をたどれないほど擦られた定型文で説教されても、解消するどころか反発してしまいますよ。
先にも書いた通り何か視点がズレている気がするんです。(これは誰が悪いだとか言うことではありませんよ。)

 

おそらく「何者かになりたい」といったときに、その内容は次の①②の属性に分けられるのではないでしょうか。

 ①独立、じぶんで選ぶ、他者とは異なる
 ②共感、選択肢は既存、他者と大部分は同じ

②で悩んでいるのに①であろうと言われたら、それは意見が食い違います。

 

 

例えば「じぶん探し」などがこれにあたるのではないでしょうか。
生命体レベルで個であり、家族の一員であり、過去を追ってじぶんに対するルーツを再認識するような行い。そうやって自己を説明するさまざまなことを認識しなおして、自己を再構築する、そういった「じぶん探し」の途中にあたるのが、①の意味での「何者かになりたい」なのではないでしょうか。

 

ポジティブな言葉で言い換えると、将来の夢をもつというのも「何者かになりたい」でしょう。
ちょっと現実的に考えると、社会人になることは、家庭環境という依存からの独立。「上京」というのも、田舎という環境からの独立です。
さまざまな選択肢の中から自分が好んだものを選択します。他者と異なることを強調し、ほかの何でもないじぶんという感覚を得ているのでしょう。ファッションや趣味はその具体例といっていいでしょう。

 

斜に構えたサブカルという個性をもって、自己の説明文を強固なものにしていくのです。自分で選び、他者と異なるものであればあるほど、個性が強調されます。

 

 

私たちは常に個人でいるわけではありません。とくに現代社会はSNSによる常時接続で「内輪」が存在するわけです。この内輪という世間のなかでじぶんの役割はなんなのだろうと考えるのが②の意味での「何者かになりたい」ではないでしょうか。

 

世間という集団がやっかいで、そのグループに認められなければ、共感されなければ評価されないのです。
ですから「そういう奴いるよね」「俺たちキャラ濃すぎ笑」という、本来の意味での個性ではなく、あるある濃度の濃い概念をロールプレイをして共感を得る必要があるのです。ここで、本来の意味の個性、つまり①を発揮してしまうと、そもそも共感されずにノリの悪い奴として集団から排斥されます。それでは集団から評価されるという前提条件が満たせません。

したがって、演じられる役割はある程度共有されているキャラクターであり、選択肢は既存なのです。
また、そもそも集団に入る時点である程度共通点をもっている必要があるのです。

 

斜に構えたオタクといっても、オタク集団であることに変わりはないのです。その中で、斜に構えているという役割を担っているのです。

 

仲間内での立場、という感覚でしたら、小さい悩みかもしれません。

ですが、SNS常時接続の社会では、家族、高校の友達、大学の友達、ネットの友達、職場の人たち、さまざまな集団にまで広がっていき、「何者かになりたい」と悩むのではないでしょうか。

 

 

 

たとえばクリエイティブなことがすぐ実現できるような環境にいれば、そのクリエイティビティが「何者かになっている度」という、感覚的ではありますが、数値化してしまっていて「ああ、あのひとは何者かになれてていいなあ」と羨むのです。

 

そんな②のことで悩んでいるのにもかかわらず、「君はかけがえのない個人だよ」と①と声をかけても、なかなかひっかかりが解消しないのです。

 

 

また、②の意味で「何者かになりたい」欲があるときは、土台が不安定な場合もあります。つまり逆に言えば、集団への帰属意識を満たしたときに、何者かになった気がするのです。

おもしろいことに、差異を求めるのではなく、共感を求めていたということになる場合もあるのです。

 

 

今欲しいものは、自分が今までやってきたことが自分をつくるだとか、ただいるだけで価値があるだとか、そういったことではなくって、
内輪ノリの楽しさを帰属として昇華して、なおかつ確かにその中で役割を与えられ/見つけて行うという充実感なのです。

映画「バービー」を観た

映画「バービー」の感想です。
以下ネタバレ含みます。

 





 

感想としては、個人的にみてよかった作品の部類には入るのですが、違和感もある映画でした。

 

 

テーマのはなし

メインテーマはフェミニズムの基礎的な部分であると受け取りました。大衆映画ですから、最先端の思想を落とし込むのは現実的ではありませんからね。ただ、基礎的といっても社会派の内容を大衆向けのコメディとして形にしたことは意味があると思います。むしろ、そういった形として製作されているので、フェミニズムを知らない人向けなのかもしれません。

 

女性社会のバービーランドや男性社会のケンダムは、ミサンドリストや男性一般に対しての風刺と捉えています。男性社会のケンダムが男性一般の思想への風刺というのはわかりやすいと思います。

一方で、バービーランドに違和感はないでしょうか。めちゃくちゃありますよね。そんな世界もおかしいだろうと、ラスト近くのシーンでは男性も立場を上げようと描かれています。女性のみの世界からの改善という意味でミサンドリストへの風刺が描かれているのではないでしょうか。

 

ラスト近くのシーンでいうと、これからケンと恋愛関係になるだろうという未来を否定します。女性は恋愛が好きなんだろう? という古典的な思想へのアンチです。さらにケンも十分であることを表明しており、男女どちらも、恋愛がライフステージの中心にあるというようなロマンティックラブ・イデオロギーを否定します。

 

ケンは自分には何もないと言います。バービーは、ケンはありのままのケンでいいと伝えます。これはバービー人形の生みの親、ルース・ハンドラーから言われたことに影響を受けたものでしょう。

 

つまり、フェミニズムの基礎というテーマの延長線上にネオリベというサブテーマがあり、それを描いている映画なのです。

 

私自身は、このフェーズはもう終わっていたのかと思っていました。ですが、映画「バービー」へのコメントを見るに、なかなかそうでもないことを痛感しました。

 

 

自己受容

バービーは人形から人間になろうと決断します。死について考えたり、セルライトがあったり。そういった形も中身の完ぺきなひとなどいないが、自身を受け入れ、それでも生きようと進む姿が素敵でした。

ラストシーンは生殖器がなかったということになっているバービーが、婦人科を訪れたことで、生身の人間になったと受け取りました。

 

自己責任論的な側面のあるネオリベな現代では、完ぺきではない自身を受け入れて素敵だと思える能力が必要とされています。悩める者への処方箋として、男女問わずに受け取れるメッセージなのでしょう。

 

 

弱者男性、インセル

この映画には弱者男性やインセルという表現はありません。ただケンが弱者男性ぽいといえばそうなのかもしれません。資格もなにもなく、ただ男であることしか自分を説明するものがない。現実社会に来て、男というものは誇ってもいいものなんだと勘違いしてしまう。

これは現実社会で、強者男性がいることで十分にふるまえなかった男性性を、女性に対して振りかざしている弱者男性像と重なるのではないでしょうか。

また、非モテの弱者男性は恋愛至上主義的な劣等感があり、恋愛が成就することですべてがうまくいくかのような幻想をときに抱いているのですが、ケンも同様の発言をしていたかと思います。

 

 

商品としての女性性

作中、娘のサーシャのセリフ「あんたは間違った価値観の象徴よ。資本主義の性的対象化、ありえない理想的体系……。あんたはフェミニズムを何年も退行させた。資本主義を美化して女性たちの士気を低下させて。あんたなんかとっくに忘れてたわ。ファシストめ」

つまりは花屋の多様性です。花屋に並んでいる時点でスクリーニングされたもので、そういった美的な「個性的」なものをもって多様性をうたうのです。その美的かどうかは性的であるかで振り分けられ、なおかつ商品として消費されているのです。

そういった、性的価値を肯定する存在にもなっていたというのです。

 

日本でもグラビアやオタクコンテンツによって性的消費がされています。
なるほど、二次元だからいいじゃないか、という意見はあるとは思います。ですが、非実在なバービー人形をファシストと呼ぶように、二次元のオタクコンテンツにも暴力性があるのではないでしょうか。

 

 

 

フェミニズムは女性の権力向上によって女尊男卑を目標にしていると誤解している人に対して、バービーランドの変化をもってその誤りを指摘。そうではなく、個人が自由に生きられるそういう理想を描き、現実的な男性性の支配と女性の生きづらさをコメディとして演出。その自由さのために、自分は完ぺきではないけれどもそれを受け入れることの大切さ。それは他人から・恋人からの肯定ではないということ。そんな苦しいのに美しい人間になることを選択し。他人から押し付けられていた女性性を、否定しつつ、拒絶はしない。かなりポジティブに締めくくられたと感じました。

 

 

腑に落ちない点もあります。権力のある男性がコメディとして、可愛げのある存在としてしか描かれてないことです。ケンは弱者男性っぽく、マテル社CEOは少しおちゃらけた言動をする人と描かれています。

 

もっと世の中ギラギラした、いかにもな男性(この映画を批判するような、でもいいですが)がいるじゃないですか。それに対してのアンチが少ないような気がします。

 

気弱なオタクくんがイキって出してしまう不慣れな男性性は批判するけれども、もっとマッチョで頑固なオヤジの汚い目線は批判しきってない。というか、前者を笑いものにすることで、マジョリティな男性には忖度しているようにも感じます。

 

それだと映画的に売れないということだったり、そういったマッチョな男性やそういった男女の構図を受け入れている女性にまで客層を広げたからでしょうか。

 

 

 

一部違和感はありますが、フェミニズムの基礎的な内容をコメディとして作り上げたことは素晴らしいと思います。また、こういった内容の映画だと、観た人同士で感想を言い合うのも楽しいものです。

ぜひ感想を言い合いましょう!