2023

1年の振り返りをします。

 

 

この1年、ブログを通してVRChatについて私感を少々綴っていました。過去の記事でも取り上げている通り、私のスタンスはVRChatは現実と地続きになっているということです。世間ではVRをリアルと比較してその優位性を語っているように思えてならないのですが、私はそう思わず、ただただ拡張された現実のひとつだなと感じるのみなのです。

 

実際、VRのおかげで広がった趣味はあります。リアルでは行かなかったクラブ系のイベントに行ったり、ファッションにこだわりをもってみたり、さまざま今までの生活から変化したところがあります。ただVRの特権というか素晴らしさというか、聖域のような印象はありません。VRChatを2~3年続けているため、初めてのころにあったときめきなどが薄れてしまっているからこういった考えになったのかもしれませんが。また、ある程度のハードル(高性能のPCやVR機器の購入)を越えてこの世界に入り込んでくるため、価値観がまったく合わない人をスクリーニングできることもあるでしょう。

 

しかし、それらはVRの特権ではないと感じるのです。趣味嗜好のきっかけやある種のゲーテッドなコミュニティは、以前であれば2chニコニコ動画がその役割でした。今目の前で行われているこれらは、ただ時代とともにその場が移り変わっただけだと思うのです。VRの特権というのは視覚的な情報量の多さ以外ないとさえ思うことがあります。

 

 

 

VRで「なりたい自分」にはなれない

例えば「なりたい自分になれる」というキャッチコピーは誤りだというのを、みなわかっているでしょう。なりたい自分にはなれません。

 

以前の記事で書いたことですが。

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メタバース進化論』(技術評論社,2022)からの引用です。

基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」として人生を送ることが可能になるのです。(p153)

 

3つの意見があります。1つめは「受け入れる」ことへの対抗が自由とされていること。2つめは自由にデザインできず、ある型を模倣すること、もしくは型からの変形でしかないこと。3つめは人生を送るためには1人では不十分だということ。

 

1つめは揚げ足取りかもしれませんね。2つめは、例えばアバターであれば基本の型(アバター)があって改変をするのです。土台は決まっていてそこに要素を付け加えたり消したりするのです。これを改変とよんでいますね。つまり、自由というのは「なりたい自分」になれるのではなく、ある型を土台にして改善や修正していくしかないのです。まったく別物のユニークなものにはなれないのです。

 

そして、一番大きいのですが、3つめ、たとえ理想の容姿やロールプレイの技術を手に入れても、それを通して人と関わらなければ人生を送るというゲームをプレイすることはできないのです。つまりは誰かと関わらなければならず。コミュニケーションがVRChatというゲーム満足度を上げる一番の要因になると感じるのです。見かけ上なりたい自分になれても、それで生活を送ることは難しい。そのため、なりたい自分と認めてもらえる自分の境界線を模索するゲームに落ち着くのです。

 

また、言葉上矛盾のように感じますが、一方で「何者かになりたい」という気持ちは肯定してます。

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ここでいう「何者かになりたい」のは、承認される像としての話です。したがって、「なりたい自分」や「作りたいもの」は受け入れられて初めて存在できるため、公共圏の範囲内でしか自由度はないのです。

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例えば公共圏を無視して、小児の性風俗アバターを作り上げることはできるでしょう。しかし、世間はそれを受け入れることはなかなかできないのです。

 

 

 

キャラと体

コミュニケーションについてはとくに承認欲求やキャラクターといったキーワードを中心にブログのエントリを書いてきました。また土井隆義の著作をよく読んでいました。

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土井がいうには、現代では公共圏では「素の自分の表出」、親密圏では「装った自分の表現」となり、以前の自己表現とは逆転してしまっているというのです。また、「装った自分の表現」を優先させ、異質な点を隠す「優しい関係」であるといいます。つまり集団からハズれないように、ハブられないように、同化してつながり続けるのです。一方で集団から離れ、知らない人の中にいるときは特段同化を意識しないのですね。

 

これは本ブログに関係ないことですが、
こういった親密圏・公共圏、ウチ・ソトの2項対立ばかりを考えていたのですが、その間にもうひとつレイヤーがあるのを知りました。

 

「体(てい)」というものです。

saize-lw.hatenablog.com

 

引用元は就活の話ですが、応用できると思います。土井のいう内キャラ(本心)と外キャラ(コミュニティで演じているキャラクター)は納得できます。その中間に、「体(てい)キャラ」があるのではないか、と思うようになりました。

 

VRChatをしていると演じているキャラ(外キャラ)だけでは不十分な場面がやってきます。例えば、しっとりとした空間であったり、好きな人との会話だったり。内キャラの一部をさらけ出すことが必要になる場面がでてきます。自身の内面を打ち明ける、カミングアウトというのはしばしば屈辱的で羞恥心を伴う行為です。そして集団からハズれないようした「優しい関係」を維持できなくなる危険性があります。

 

メンヘラというのは、この内面を正直に話しすぎなのです。私も含めて。こういったときは、体(てい)を使うのがよいのです。方便です。例えば、君が一番好きだよといつでもいうのです。べつに一緒に居なくて寂しいと思っていなくても、寂しいという体にするのです。

 

 

 

ホモソーシャル

「装った自分の表現」を優先させ、異質な点を隠す「優しい関係」を行い、同質主義なのが現在のSNS社会(=VRChat)だと思っています。なかでもサービス利用者は男性が多いわけですから、男性優位主義machismoを感じることが多いです。

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この記事ではこんなことを言ってたんですね。

 

メス男子について

「男らしさ」から「降りる」という選択肢もできると思います。アバター・女声やボイスチェンジャーなどで女性的なコードを身にまとうことが可能なのです。「男性」という地位につかないという選択肢で、自ら貨幣として扱われることで、社会に参加するのです。

ここで、見かけ上、ギデンズのいう「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」に近いと感じてしまいます。自由に塑性できる性のため、「対等な人間同士による人格的絆の交流」という親密な関係性と錯覚してしまうのではないでしょうか。
(実際は選択したジェンダーのロールプレイのため、対等ではないように思えますが……。)

つまり、ロールプレイによる演技は誇張を伴うわけです。そのため、男性性から降りて男女隔たりない対等な関係を望むのではなく、男女の差を強調させる行いなのです。

 

お砂糖について

また、リアル社会では結婚することがまだまだ常識であり、むしろ義務のように感じます。
そのような中での「お砂糖」という関係は、結婚とは対極にある恋愛の純粋でプラトニックなものとして経験されるのではないでしょうか。

つまり、(同性同士なので)永遠に結婚することはできないという制約自体が、結婚して家族を作って生活するような生々しさをイメージすることなく、まるで愛人かのように、純粋な愛情と錯覚するのではないでしょうか。あくまで異性間のお砂糖を除いた話ですが。

 

そう考えると、メス男子もお砂糖も、男女平等に向かった結果ではなく、男女差が開く方向に誇張された結果なのではないでしょうか。

 

 

 

VRChatに限らずSNS社会、自身をどのようにでも名乗ることができます。しかし、名乗ったところでそれを認めてもらわなければ実感はありません。そのため、認められやすく誇張した外キャラを演じています。それは自身だけでなく他者もそうです。認めるにはある程度の基礎知識は必要です。ですから、似たようなところに似たような人が群がる結果となります。同質であることを確認してほっと一安心するのです。こっちが認めてやるんだからそっちも認めなさい、という契約を無意識的にやっているのですね。そんな同質性に富んだ中では少しの差異がとてつもなく強烈に見えます。だから例えば「オレたちキャラ濃いww」という寒さが出るのですね。でもいいのです。それで。その同質でゲーテッドなコミュニティの中である役をロールプレイすることでしか、私たちは実感を得られないのですから。

 

ただできる抵抗はいくつかのコミュニティに同時に所属することでしょうか。もしくはリアルを生きるか。案外、リアルの方が生きやすいかもしれません。

J-pop DJのはじめ方

VRChat内でJ-popをメインにDJをしています。
経験も知識も浅いのですが、私なりにDJをしている方法を記載していきたいと思います。これを見た人がJ-pop DJをはじめて、もっと和モノイベントが増えてくれればよいなと思います。

 

 

 


つなぎ

J-popは一般に次のような構成になっています。

    1番 2番    
セクション イントロ Aメロ Bメロ サビ 間奏 Aメロ Bメロ サビ 間奏 Cメロ サビ アウトロ

 

イントロ・間奏・アウトロがボーカルの入っていないことの多いセクションです。ここが繋ぎどころです。私の場合は、1番の間奏に次の曲のイントロを重ねます。

 
デッキ1   1番        
セクション イントロ Aメロ Bメロ サビ 間奏        
デッキ2           1番
セクション         イントロ Aメロ Bメロ サビ 間奏

 

間奏とイントロの重ね
例 STAY TUNE/Suchmos → Break Free/Nulbarich

 

つなぎ方は以下のとおりです。フェードインとちょっと速めのフェードアウトです。

BPMを合わせた後、

①デッキ2のlowを切り、デッキ2の縦フェーダーを徐々に上げる
②デッキ2のlowを徐々に上げていき、同時にデッキ1のlowを切っていく
③デッキ1にbeat fxのlow cut echoを少し(10時くらいの角度)かける
④デッキ1の縦フェーダーを切る

 

基本的に間奏やイントロといったボーカルのないセクションをつなぐため、低音にさえ気を付けていればいいかなと思い多くはlowだけでやっています。丁寧にやりたい場合はmidやhiもいじります。

 

フェーダーの動きに関しては、以下のサイトが丁寧に書かれてあり、参考にしていました。

dogal-blog.com

 

YouTubeで手元の見える動画はたくさんあるので、それを参考にしています。

アニソンmix No.2 手元公開【お宅DJ】 - YouTube

この動画なんかはlowと縦フェーダーが中心になっています。

 

 

low cut echoはお好みで、なくてもよいです。あった方が好きな場合が多いため、おまじないとして書いておきます。

 

low cut echo
例 ELECTRIC SUMMER/Base Ball Bearテレキャスター・ストライプ (全知全能 ver.)/ポルカドットスティングレイ

low cut echoなし

low cut echoあり

 

テレキャスター・ストライプはテレレテレレテレレテレレと始まりますね? これは印象的なスタートなので、フェードインなどして崩さないように、フルボリュームでいきなり流すようにします。対して、今かかっているELECTRIC SUMMERは速めのフェードアウトをしていきます。ラブホテル/クリープハイプの「夏のせい」なんかも似たように印象的なスタートですね。

ROCK以外でも『愛しい対象の護り方』カンデコ/茶太のはじめのジャーーンという感じはいかしたい要素です。ほかにもジャーーンはいろいろあると思います。

 

 

しばしば1番の間奏がなく1番のサビの後にすぐ2番のAメロがくる場合もあります。

    1番 2番    
セクション イントロ Aメロ Bメロ サビ 間奏 Aメロ Bメロ サビ 間奏 Cメロ サビ アウトロ

そういったときは

・カットイン
・low cut echoで無理やりつなぐ
・lowだけでなくmidも操作する
・2番の間奏までかける
・2番から流す
・途中でラスサビに飛ばす
・使わない

といった対処をします。

 

low cut echoで無理やりつなぐ
例 「あの娘は誰?」とか言わせたい/KIRINJI → 金曜日のヴィーナス/流線形 & 一十三十一 Feat. 堀込泰行

サビの途中から次の曲のイントロを入れています。違和感のないように雰囲気の似ている曲を選びましょう。

前の曲は何もしないと次の歌詞が始まってしまいます。ですから、low cut echoで無理やり伸ばし、「言われたよ たよ たよ たよ……」とechoをかけてます。

 

ちなみにKIRINJI(堀込高樹)と堀込泰行の兄弟つなぎなので、ボーカルの質感も似ており違和感が少なくつなげたと思います。

 

 

ボーカルのないセクションでも重ねてみるとうるさくなってしまうことがあります。そういった場合は、デッキ2の曲を入れるタイミングを遅らせ、できるだけ重なる時間を短くします。 

しかし、つなぐ時間が短くなって細かなEQの操作が難しいのが欠点です。その場合は、filterをつかってお茶を濁します。

 

例 ねぇ/Perfumeチョコレイト・ディスコ/Perfume

EQを操作(low・mid)した場合

filter(high pass)を使った場合

 

あまり違いはないと思います。ツマミ2つの操作からツマミ1つの操作になっただけでも余裕は違います。

また、この曲でもつなぎの時間は十分にある方です。アニソンなどもっと短い時間でつながなければいけないときにfilterは重宝します。

 

以前ニコニコのブロマガに上がっていたものを参考にしました。
同じ著者さんがnoteでも書いていらっしゃいますので、そちらも参考にしてください。

note.com

 

 

Cue打ちは、以上のことが操作しやすいように次の箇所に打ちます。

・曲を切り終わるタイミング:間奏のおわり
・重ね始めるタイミング:イントロのあたま

重ねる時間は私は8小節分としています。これくらいあれば慌てててもなんとかなるかなと思っているためです。

 

 

以上がベーシックなつなぎ方でした。もっとほかのつなぎ方は後述します。

 

 


セットリスト

ほかのジャンルでも、盛り上げや落ち着きの波ができるように作っている人が多いと思います。J-popでは音楽自体のもつ盛り上がり性(BPMや音圧など)のほかに知名度も盛り上がりに関与します。表にすると以下のようになるでしょう。こういったことを考えながら選曲していきます。

 

    音学的な要素
   
知名度 メジャー アンセム
マイナー ニッチ

 

また、選曲は3~4曲をひとつのカタマリとして、できるかぎりカタマリ内ではテーマをそろえ、次のカタマリに移行するときに大きく違う雰囲気へ変えるようにします。

以下、実際のセットリストを例に、どうやって作っていくかを述べていきたいと思います。

 

セットリストの例

GOTANIST でDJプレイしたものです。

https://x.com/Shikimi_t/status/1726168720547230143?s=20

 

 

私は2番手で、1番手のミカゼさんがエレクトロスイングかける予定でした。エレクトロスイングはJAZZの色が濃い音楽ですので、私もJAZZっぽい曲を選曲しました。

 

 

上記セットリストでは①~④でひとカタマリです。

Go! Go! Maniac/ALL THAT JAZZ
残酷な天使のテーゼ/ALL THAT JAZZ
③The Sweetest Time/中塚武
④愛の泉/orange pekoe

今回のセットリストはいきなりアゲていくようです。

このなかで①、②は定番曲のJAZZアレンジです。はじめにかけた①Go! Go! Maniac/ALL THAT JAZZはインスト(ボーカルのない曲)です。1番手のミカゼさんもインストの曲で終わるだろうと思ったため、それに合わせてこちらを先にかけました。

①~④はすべてJAZZの曲調で、BPMも同じくらい。対して知名度は違い③④は比較的マイナーなため、そこで盛り上げの波を作ろうとしているのです。

 

 

⑤土曜日の恋人/NONA REEVES
⑥ラブリー/大橋トリオ
⑦アポロ/モノンクル
丸ノ内サディスティック/宇多田ヒカル with 小袋成彬

このカタマリは、先ほどよりもBPMを思いっきり下げて落ち着きを表現しています。先ほどのカタマリは124前後、こちらのカタマリは90前後です。

BPM以外のところは統一感を崩さないようにしています。このカタマリ内の曲はすべて有名なJ-popのカバー曲で、知名度に差はありません。曲調もJAZZっぽさがあります。

 

 

⑨渋谷で5時/鈴木雅之 & 菊池桃子
⑩原宿午後6時/フレンズ
⑪東京は夜の七時 (feat. Night Tempo)/野宮真貴 & Night Tempo

いったん落ち着かせたためまた盛り上げの波をもってこようと思います。そのため、BPMが120台と先ほどより早めの曲群をもってきました。

 

このカタマリ内では文脈でつなぎをしています。前のカタマリの最後が「丸ノ内」サディスティックなので東京の地名でつなぎました。

このカタマリ内では5時6時7時と時間が経過していくようにつないでいます。つなぎやすいように⑪は原曲ではなく、BPMの近いNight Tempoのものを使用しました。

また、これらは渋谷系というジャンルでもつながっているため文脈的親和性の強いつなぎでした。

音楽的には少しJAZZさは薄くなり、POPSよりになっています。

 

 

⑫接吻/ORIGINAL LOVE
⑬ひかるまち/CRCK/LCKS
⑭はなれ ばなれ/クラムボン
⑮エイリアンセックスフレンド/FINAL SPANK HAPPY
⑯まわれ まわれ/流線形と比屋定篤子

今度はまた落ち着きを演出したいためにBPM90台を選曲しています。知名度は接吻以外は、今までの曲と比較してないほうだと思います。音楽的・知名度的にも落ち着きのあるカタマリとなりました。

 

次のカタマリで盛り上げるための布石でもあります。
実際、このあとはBPMも少し上がり知名度も高い曲が続いています。

 

個人的にやりたかった東京事変の曲を最後の盛り上げにして、赤い公園でしめています。

 

……と、このような感じにセットリストを組んでいます。

 

BPMや勢いや雰囲気など音楽的な要素、そして知名度という要素の両者で、アゲサゲの波を作った例でした。

 

セットリストの作り方は以下の記事を参考にしています。

note.com

 

 


Dig

 

Digり方は大きく2つあります。

 

①ほかの人のDJを参考にする

参考にしているDJを挙げます

www.twitch.tv

(filterでつなぐことを解説してくれた人)

 

www.youtube.com

 

ほかにもYouTubeでDJを検索したり、VRChatのDJイベントで気になった人のmixを聞いたりしています。

 

Spotifyでセットリストを作ってみる(こっちがメイン)

絶対に入れたい曲やテーマを決め、Spotifyのおすすめ、プレイリスト、radioで気になった曲をどんどん入れていきます。

 

ざっとしたプレイリストができたら、セットリストにするならどういう順番にするか考えながら、新しく別のプレイリストを作ります。

曲を聞きこみしながら河川敷を走ります。少し痩せます。

 

そこで選んだ曲を含むアルバムを手に入れ、一緒に入っている曲も聞きます。

 

これを繰り返します。

 

 

ほかにも個人ブログやタワレコオンラインをみることが多いです。
とくに、文脈的なつなぎをする場合は個人ブログやTwitterが役に立ちます。

 

 


ほかのつなぎ方

 

どうしてもBPMの違う曲をつなぎたいだとか、雰囲気の違う曲をつなぎたいだとか、つなぎかたの幅を広げたいとかベーシックなつなぎかたで満足できないことがあります。

 

例えば、ジャンルは少し違いますが、つなぎのテクニックは以下の動画を参考にしてます。使えるところがあればそれをJ-popにも応用します。

プロが教える!HOUSE / EDM / TECHNO で使える DJ MIX 応用テクニック 5選 with MIXFUN! (DDJ-FLX4対応!) - YouTube

プロが教える!HIPHOP / R&B で使える DJ MIX 応用テクニック 5選 with MIXFUN! (DDJ-FLX4対応!) - YouTube

【アニソンDJ教則動画】適した曲は?カットイン基本編! - YouTube

 

 

私の例も紹介します。

 

言葉・ループでつなぐ

例 ユリイカ/サカナクション爽健美茶のラップ/chelmico

ROCKとHIP HOPをつなげる機会がありました。曲調が変わるため、なにかでつなぎたいなと思って「ドクダミ」のループでつなぎました。こういう言葉でつなぐのもひとつの手段としてもっておきたいです。普段から歌詞に意識を向けておきましょう。

 

 

クラッチでつなぐ

例 350ml Galaxy/Lucky Kilimanjaro → 白日/King Gnu

BPMが123と93で大きく違います。
白日にはサビ前にスクラッチ音が入ります。ここをHot cueで再生してリズムを作ってつないでいます。実際にスクラッチしなくても、スクラッチ音のある曲を選べばなんとかなります。

ちなみに350ml Galaxyはお酒の歌で、実際のイベントではマイクパフォーマンスで乾杯を煽っています。その後に有名で比較的スローテンポな白日が流れれば、乾杯を邪魔せずかつ盛り上がれると思ったため、この並びにしました。

 

 

ボーカルとボーカルを重ねる

例 BOY/daoko → Ututu/daoko

ボーカルとコーラスを重ねる

例 すいみんやく/pinoko → Fog/daoko

イントロ・間奏など音の少ないセクションがみあたらない場合は、思いっきりボーカルとボーカル・コーラスっぽい部分を重ねてみます。もちろん、違和感が大きくならないように同じアーティストや曲調・声質の似たアーティストにしましょう。

 

 

ドラムのダダダダでつなぐ

例 WHERE?/夜の本気ダンス → シャングリラ/チャットモンチー

ちゃんとした用語がわからないのですけど、ダダダダはつなぎやすいです。BPM90(180)から129に変わっているので大幅な切り替わりですけれど、そこまで違和感なくつなげられます。

 

 

ほかには、バックスピンやちゃんとジョグを動かしたスクラッチを伴ったつなぎも取り入れています。

 


おわりに

私は独学で、主にアニソンDJを参考にJ-pop DJをしています。ほかの畑の人から見たら違うつなぎ方かもしれません。その点、ご留意ください。

 

J-popはじめ歌モノはそこまで難しくなく、つなげられるポイントが少なく制限が多いです。よく言えば、悩むことは少なく、ワンパターンになるように感じます。というかJ-popならフルでかけてもそんなに悪くないとさえ思います。

 

むしろ、つなぎ方というよりもセットリストを組んだり、Digったりする方に重要性の軸があり個性を発揮できるように思えます。そのため、DJの趣味志向が色濃く出て聞いていて楽しいのです。

 

既知の曲からはじめられる懐メロDJなんかは、聞き込みは既にしているし、フロアの盛り上がりも予想しやすいです。意外とオシャレな曲も多いですよ。昭和歌謡をやってこそとまでは言いません、まずは00年代POPSをやってみませんか?

 

基本的なことしか記述していないかもしれませんが、これを見てJ-popをやるひとが増えてくれればうれしい限りです。

 

 

 

転生の可能性

以前のブログで、転生可能性が自己愛のプログレッサーであるのではないか、と書いたことがあります。

 

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長い記事だったので、あらためてまとめてみます。

 

 

ひとつは自己愛

ここでいう自己愛とはコフートの話でした。自信や自己評価といったものと言い換えることができるものでした。これは鏡映自己対象、理想化自己対象、双子自己対象によって満たすことができるという論でした。

悩めるわれわれは、この自己愛が満たされてない状態にあるのではないか? という仮説です。

 

 

ふたつめは小集団

固定メンツというサークル、内輪という世間のことです。界隈といってもいいでしょう。そこではスクールカーストに似た閉鎖的な空気感があるのではないでしょうか。もしそうであれば、維持していたキャラが崩れると評価がガタ落ちして、界隈で認められなくなるのではないか? という仮説です。

 

 

自己愛と小集団の仮説から

小集団の構成員を自己対象にして自己愛を満たしているのならば、質の低い自己愛になってしまうのではないか、ということが考えられます。

言い換えると、固定メンツの内輪ノリだけでは、褒められる・尊敬する内容や相手は限られてしまって、そこでは十分に満たしきれていないものがあるのではないか? 真の個性ではなく抑えられた「キャラ」として演じるだけでは十分な自己愛が満たせないのではないか? という問題をあげています。

 

 

それに対して界隈を移動することがひとつの対応策だろうと提案しています。

 

 

結びを格好つけて書いてしまったのですが、読みにくいかもしれないので、補足です。

リアルとバーチャルの連続性、むしろスクールカーストなどリアルでのイニシエーターが根にあり、

VRChatでわれわれが過ごしている界隈の世間は、とくに空気であったりイデオロギーであったり、リアルと地続きです。

例えば、学生時代のスクールカーストのようなキャラを作り合う空気の読み合う関係が今でも続いているのではないでしょうか。

イニシエーターとは腫瘍の分野でいうDNA損傷物質で、いわゆる起爆剤です。

 

バーチャルがそのプロモーターとして役割を果たしてしまっていると、一連の流れを記述し終えたときに感じました。

VRChatという2.5次元はよい意味でも悪い意味でもデフォルメされるものです。

バーチャルだから今までになかった自由な人間関係なのだ、というわけではなく、むしろスクールカーストな空気感がデフォルメされ、強化されているのではないでしょうか。

プロモーターとは、腫瘍の分野でいう作用促進剤です。いわゆるブースターです。

 

そこでは転生可能な流動性が自己愛のプログレッサーとなるのだ

界隈を変える仕組みとしての転生。または、「転生をしてもいいんだ」という、転生しない方が偉いという先入観を捨てること。もっというと、ちょっとくらい失敗してもいいんだということ、キャラにあっていてもしんどいことはしなくてもいいこと、そういったことの再確認が自己愛をより満たせる方向に進むのではないでしょうか。

プログレッサーとは腫瘍の分野でいう遺伝子変異の増加剤です。よい方向へ転換することを願って比喩としました。

 

 

さて、ここまでが以前の記事で書いた内容です。

 

 

文化系トークラジオLifeで、SNSについて以下の議題があがっていました。

そんなことを考えていたときに出会ったのが、ボリス・グロイスの『ケアの哲学』(河村彩訳、2023年)でした。この本では、たとえばSNSの投稿のような「自分に関するデータ」のことを「象徴的身体」と呼び、生身の身体の延長にあるものと捉えています。そしてもうひとつ重要な概念が「セルフケア」です。これは、国家の福祉に代表される、他者からもたらされるものとしての「ケア」に対して、自分が自分のことを調整していく、「自己への配慮」(フーコー)に近い概念です。

 

この本では、数々の歴史的な哲学者の議論を振り返りながら、「ケア」と「セルフケア」の対比が語られるのですが、僕はこの本から、「いまやSNSで情報を発信したり、あるいは受信したり、いいねしたりすることは、セルフケアの一部になっているのではないか」

 

これに一部影響されて書いた記事が以下のものです。

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ここで、

VRChatはSNSとしての不十分さがあるのです。そして他のSNSによって補完されている面が多いのです。

といって書いたとおり。自分に関するデータは蓄積されないので、見かけ上象徴的身体が薄れているのではないか、と思うのです。

 

 

転生することは象徴的身体の損失です。ですがVRChatではそれが薄いのならば、転生は意外と簡単にできてしまうのではないかと思うのです。

もちろん、システム的な意味ではなく、気持ちの面です。

 

サブ垢や裏垢をもつことにうしろめたい気持ちを抱く人も多いと思います。ですが、VRChatでは意外と自身の中で受け入れられるのではないでしょうか。

 

 

さて、そうなると次の課題がみえてくると思います。新たな界隈への加入ですね。友達作りといってもいいでしょう。自分の居心地のよいイツメンを探すことです。

このことについてはまた考えるとして、ひとまずのまとめを。

 

 

転生は悪いことではないし、転生は意外と簡単に受け入れられるものです。……とは言い切れませんが、少なくともその可能性はあるのではないでしょうか。

ですから、今のアカウントで「失敗しちゃったな」と思ったとき、いざとなったら転生しちゃえばいいんだ、と思うことで少しは気が楽になるのではないでしょうか。

 

 

以前のブログの焼き増しですが、あらためて。

 

VRChatでイベントキャストをドライに推す(ジャニオタとブックオフから)

以下ツイート群を読んで、ジャニーズ問題から推しの構造を考えるようになりました。

 

 

もともとの意味とは別に、推すという行為にある種の錯覚があるというのです。アーティストやタレントを社会的に勝者にすることによって、自分たちも勝者になれるという投影が。そういった人たちを応援する活動は経済活動ですし、社会的勝者とは経済的な意味も十分に含むでしょう。

個人的に勝者気分へ浸っていることは別によいのです。ですが、経済的支援を行っていると主張することで勝者であると棚に上げてしまうのはいかがでしょうか、と思ってしまうのです。同じような意見のポスト(ツイート)をみつけたので引用しますね。

 

 

 

 

いやしかし、推すことが経済的支援になっているのは事実ではないかという指摘もあるかもしれません。ですが、例えば書籍であれば以下のような推し―推されの関係性があると思うのです。

 

 

 

 

ここまでを少しまとめると以下のようになるでしょう。

推すという行為をするとき、推す側は推される側へ投影を行っている。それは、推される側が社会的に成功することで自身も成功したように感じることである。


だが、錯覚であるにもかかわらず、自身が成功したかのように、成功させたかのように、投資したかのようにふるまうことがある。それをもって正当性を主張するのはいかがか。

 

そもそも推すという行為に経済活動が伴うという構造がそれを錯覚させているのではないか。経済活動を伴わない推す行為として、古本屋で書籍を購入することでも推すことはできるのではないか。そういった読者―著者の関係、推し―推されの関係を淡くてドライな関係と表現している。

 

 

淡くてドライな関係を考えるために、推すことが必ずしも経済活動を伴わない関係をとりあげようと思います。

そのひとつがVRChatイベントキャストの推し―推されだと思うのです。

 

 

ただし、推しという構造的には同じだと思いますので、既存の枠を当てはめて、あらためて淡くドライな関係を考えてみましょう。

 

 

まずは経済活動の有無です。

基本的にVRChatイベントキャストを推すことに経済活動は伴いません。イベントはほとんど有志が行っているもので基本的に無料です。推しのキャストができて推すと表明し、推しに会いにイベントに通うことにお金はかかりません。そういった意味で淡くドライな関係に近いかもしれません。

ただし、キャスト個人への感謝をこめてAmazon欲しいものリストからプレゼントを贈るといった行動をすることはしばしばあります。こういった行為は既存の濃くウェットな関係に近いでしょう。

 

 

社会的支援はどうでしょう。

VRChatでの社会的地位というと、人気や質のよい交流でしょうか。これについては以前にブログで考察したことがあります、というかこのブログ全体のテーマでもあるかもしれません。そこの詳細はいったん不明のまま、仮置きで考えてみたいと思います。

人気や質のよい交流の支援というのは、なかなか難しいことでしょう。もちろんイベントに会いに行って、ある程度認知される客としてふるまうことによって、キャストが人気者になることはできることでしょう。しかし、VRChatterとしてイベントだけをやっている人は少ないのです。むしろオフのときこそ、選択的で質のよいと思っている人と居るのではないでしょうか(イベントは交流する相手を自身で選べないので)。

つまりはオフのときこそVRChatでの社会っぽさがあり、そこを支援できているかというと、やはり一般の推す側ユーザーでは難しいでしょう。

 

 

となると一見淡くドライな関係にみえてきそうです。

 

 

一般的な推す側は、推すことによる成功錯覚や、公式からの供給、ファンサによって報酬を得ます。VRChatでは成功錯覚や公式からの供給はほとんどなく、ファンサがある程度でしょうか。

先にも書いたとおり、ファンサが行われるのはイベントのロールプレイ上であるはずです。そのため、いわばオンのときなのです。推し―推されの関係は報酬を含めてイベントの中で完結しているのです。しかし、推す側のユーザーとオフで個人的に会うということはVRChat上では日常的なことです。イベントおつかれさま、とfriend+のインスタンスで話すなどよくあることです。

つまり、オフでイベントキャストと会うことは個人的な行為なのにもかかわらずファンサのように感じてしまうのです。そのことを混同し嫉妬してしまうと、ドライというよりはウェットになってしまうでしょう。

 

 

ということは、ドライな関係は報酬を受け取るようなものではないのではないでしょうか。

 

 

そもそもアーティストやタレントやVtuberなどある程度推し―推されの成熟した関係で用いられていた言葉をこちらでも適用することに不十分さがあったのかもしれません。ですが、似たような感情を言語化して運用していることは素晴らしいことです。

この未成熟ながら、支援して報酬を受け取るというような枠から外れた、別の形の推し方が淡くドライな推しなのではないでしょうか。そう考えると、われわれはまさに部分的に実践しているのかもしれません。なかなか、難しいんですがね。

 

 

「SNSとしてVRChatを分析する」を読んで

 

思惟かねさんのnote(以下、本記事)を読み、
あらためてVRChatとSNSについて考えてみようと思います。

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私たち本記事ではVRChatを既存のSNSと比較しています。LINE、X(Twitter)、Instagram、Tik TokのSNSを利用目的・グローバル/ローカルで要素分解し、これをニーズをもとにフレームワークを使って比較と分析、VRChatはどうか考察をしています。非常に面白かったです。

本記事はマジョリティの一般層とくにZ世代をターゲットに新規開拓をテーマにしていました。それに対して、私自身は原住民ですので、原住民の肌感覚を書き記していこうかなと思います。

 

原住民のボリュームゾーンは20代~30代だと思いますのでZ世代よりも少し上の世代となるでしょう。私たちのSNS感覚は、思春期のころに個人ページやブログを経て、ガラケーの時代にmixi、モバゲー、gleeなどで芽生え、前略プロフィール黒歴史になり、震災後スマホが普及し大学生や社会人になってLINEやTwitterFacebookを使って友人とコミュニケーションをとることで成熟し、平成が終わるころから知らない人とマッチングアプリであって、知ってる人とは今でもLINEで連絡とり続ける、Instagramに関しては電話の代替にも応用している。そんな感覚が共有できるでしょう(平成が終わるころから――を共有できない人もいるかもしれません)。

 

本記事はSNSの利用目的を「情報収集」「娯楽」「交流」「発信」の4つに分けています。私の場合はそもそもこの利用目的というのが曖昧と感じます。結果的にその4つに集約されているということはもちろんあるのですが、SNSを利用しようと試みる動機は別のところにあるかと思うのです。というのもなんとなく「つながっている」という意識が欲しくてやっているところがあります。そういう意味ではローカルな交流に当てはまるのかもしれません。ですがそれとはちょっとニュアンスが違うかなとも思うのです。

 

TwitterFacebookInstagram、Tik Tokは機能として「発信」がメインでしょう(こちらのグループを投稿型SNSとします)。発信というフォーマットが先にあって、その他の目的やグローバル/ローカルの差が後から生まれるのでしょう。例えばつぶやきをみた人が面白いと思えば娯楽になります。例えば鍵垢を使えばローカルなものにできるし、そうでなければ、RTなどすればもっとグローバルなものになります。

 

一方でLINEは「交流」の機能がメインになると思います。本記事にもありますがDiscordなどの通話アプリもこれにあたるでしょう(こちらのグループを通話型SNSとします)。LINEは本記事に書かれている通り複垢が難しく、電話番号の役割を担っているとてもローカルなものです。対してDiscordなどは比較してグローバルなものともいえるでしょう。

 

どちらも「つながっている」感があります。通話型SNSは会話によって自己をそのままぶつけてコミュニケーションしているので、わかりやすく「つながっている」感があります。投稿型SNSは投稿に対しての反応はもちろん、堆積した投稿が自己を形成するように思え、それをみた他者が反応してくれるところに「つながっている」感があります。そういった「つながっている」感の取得が先行して、娯楽や交流などの目的に続くのかなと思います。

とくにわれわれ世代がSNSを利用している感覚があるのは後者、投稿型のほうではないでしょうか。

そしておそらく、ローカルな交流をしているんだなと俯瞰してわかり合える感覚、これが「つながっている」感なのではないでしょうか。

 

まとめると、SNS利用の動機は「つながっている」感であって、SNS利用の目的はローカル(一部グローバル)な「発信」と「交流」になるのでしょう。

本記事の言葉を使うのであれば、①親しい友人との交流(ローカル)の重視と③ローカルでの気軽な発信による交流の活発化にあてはまるのではないでしょうか。

 

対して「情報収集」や「娯楽」は別のプラットフォーム、ニュースサイトやYouTubeNetflixを使うことが多いのではないでしょうか。

もちろん、Z世代でいう情報が流れてくるという感覚もわかります。なぜなら、マスメディアの公式アカウントがSNSにあってそれをフォローしたり、RTでまわってきたりしたら自分のTLに流入するからです。でもわれわれの世代がSNSをやっている肌感覚としてはこれは当てはまらないのかなあと思うのです。

 

 

 

さて、私はVRChatをどのような肌感覚で使っているでしょうか。

 

これは本記事でも指摘されていることですが、VRChatはSNSとしての不十分さがあるのです。そして他のSNSによって補完されている面が多いのです。

例えば、イベントの画像や感想をX(Twitter)に投稿することが多いでしょう。これはVRChatの機能だけでそういった感想の共有、グローバルな発信ができないからです。本記事の言葉でいうところの⑤機能別での複数SNS併用はすでに原住民が十分にしているのです(本記事ではシームレスな移行ができないことを指摘しています)。

 

逆に、この不十分な機能が仮想世界という感覚を作っているのだろうと思います。現実世界だって人と人が会って話をするだけしか機能はありませんからそれと似たようなもので。現実世界で今日あったことを発信するSNSと、VRChatで今日あったことを発信するSNSが同系統である、こういったことが結果的にではありますが仮想世界っぽさを演出しているのではないでしょうか。

現実世界では、LINEで予定を決めて、写真を撮ってInstagramにアップする。
VRChatでは、Discordで予定を決めて、写真を撮ってX(Twitter)にアップする。
こういった対比があるので、現実世界の対になる概念として仮想世界だと認識することができるのでしょう。

 

これがたしかにSNSなんだけれども、既存のSNSと違うよなあという感覚ではないでしょうか。

 

 

 

また、本記事④効率重視・受動的な利用傾向について。
タイムパフォーマンスといわれ、時間を貨幣として消費活動をしているのはわれわれも同じだと思います。そのため逆説的にVRChatに特別性がうまれるのではないでしょうか。
例えば、いつも節約している人が給料日に贅沢なディナーを食べるなんてことがあるでしょう。お金をケチっている人が贅沢だなと楽しみを求めることは、お金をケチらないことなのです。

つまり、タイムパフォーマンスを気にしている人が贅沢だなと思うのは、時間を気にしない、タイパが悪いところに身を置くことなのです。
家で倍速で映画がみれる社会において、映画館にわざわざ行き、等速で映画をみるのは、贅沢だからでしょう。

こういった贅沢性、「ホンモノ」感、オーセンティシティ(authenticity)がVRChatにはあるのではないでしょうか。

 

現実世界では、新しいSNSであるBeRealなどがそれにあたるのではないでしょうか。

 

 

 

Z世代の新規開拓は本記事の著者にまかせるとして。われわれ原住民がVRChatを利用している肌感覚として。
生やコミュニケーションなどさまざま現実世界では享受することが難しかった物事に対して、オーセンティシティのあるものとして経験することができ、かつそれを通話型SNSを通して企画したり投稿型SNSを通して感想を言ったり、現実世界と同様のフォーマットを用いて二次的に消費し「つながっている」感を得ている、そんな肌感覚なのではないでしょうか。

Z世代には学校というつながりがありますが、それを卒業した大人たちがそれでも人とつながっていたいときにVRChatを使っているのが私の感覚だと思います。

 

friend+こそ、もっとも公共的なインスタンスではないか

VRCのインスタンスにはpublic、friend+、privateなどと種類があります。

公共というとpublicインスタンスを指す、と思っていたのですが、
friend+こそがもっとも公共性を感じるインスタンスなのではないか、と思っています。

 

「公共性を感じる」という言い方をしたのはちょっと理由があります。もちろんシステムとしてもっとも公共的なのはpublicインスタンスです。ですが、違う言葉でいうと「世間」を感じるのがfriend+インスタンスなのかなと思ったからです。

 

 

土井の文を引用します。

考えてみれば、公共の空間に居合わせた見知らぬ他人どうしは、まったく無関係に孤立しているわけではありません。たとえば、満員電車のなかでも視線が相互にかち合ったりしないのは、お互いに、いわば協力し合って意識的に視線をずらしているからです。私たちは、公共の場では不関与でいるべきだという規範に、じつは協力して関与しあっているでのす。これは、意味ある人間として他者を認めたうえで初めて成立しうる、いわば演技としての無関心です。

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

当時の若者について、以下のように述べています。

親密圏に居る人間に対しては、関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっているけれども、公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しないほどにまったくの無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしているだけ――

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波書店,2004)

 

VRCでいうと、publicインスタンスにいるfriendではないユーザーに対して、無関心で、意味のある人間として他者を認めていないのではないか、ということになります。

そこまではいかなくても、荒らしをするといった理由にとどまらず、アバターが好みではない、使用する言語が異なる、声が可愛くない、などといった理由からもコミュニケーションをとるに値しないといった値付けを行い、「演技としての無関心」すらも行わないこともあるのではないでしょうか。

 

 

一方でfriend+のインスタンスでは、「友達の友達」程度のつながりがあるために、好みではなくてもとりあえず会話しておくか、悪い評価はされたくないな、などといった気持ちになるのではないでしょうか。friend+にはそういう世間によって束縛される公共圏があると思います。

音量の減衰が微妙で聞き取りづらいなら距離をとったり、そういった場では他人の迷惑になるアバターを使用してはいけなかったり、マナーに近いものが無意識的に共有されていると思います。(逆に共有していない人を「空気が読めない」というのかもしれません)

 

前回のブログでも距離感について以下のように書きました。

距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。

 

 

invite+以上のインスタンスでは、招待というスクリーニングを経ているために、そういった世間を考える必要性が薄れています。つまりは親密圏を指すと思います。

 

 

friendのなり方が現代のSNS特有なのもあります。鈴木謙介著の『ウェブ社会のゆくえ』に従うと、とりあえずfriend申請を送りあとから仲良くしたい相手を選ぶ「引き算」の関係性になっているのです。そのため、friend≠友達であって、親密性を示す変数は時間の共有だとかinviteする/されるだとか外部のSNSでのコミュニケーションだとかそういった、VRC以外の影響を大きく受けると思います。

 

すると、friendインスタンスも顔見知り程度の人が来る可能性があるため、意味のある他者として迎え入れなければならないという意味で公共的ですね。friendの数が何百人何千人もいるユーザーはなんかはそう思っているのではないでしょうか。

 

friendという枠が可視化されるけれども、実態としては顔見知り程度のことがあるという現状は、「本当の友達」だとか「親友」だとか「気が置けない仲」にあこがれを抱いてしまいます。それは可視化されるべきものではないと個人的には考えているのです。ですが、どうしても不安に思ってしまうことに同意します。できることといえば、言葉以外の方法でそれを実感させてあげることでしょうか。

 

 

少し話がそれてしまいましたが、friend+という公共的なインスタンスで意味のある他者に配慮することは、われわれ(土井の本が書かれているときに若者だった)が苦手としていた行為です。ですが、最近の私はその行いをするのも自分にとって大切だなと感じるのです。

ディスコードやTwitterでの常時接続による重すぎる親密圏の人間関係で疲弊している現代に、つながりつつ、つながっていないようなfriend+での交流が癒しに感じることもあるのです。

 

 

『メタバース進化論』本当のコミュニケーションは私に合わない

バーチャル美少女ねむ 著『メタバース進化論』(技術評論社,2022)を読みました。

メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界

 

なかでも第5章、コミュニケーションのコスプレがおもしろかったので、読書の感想としたいと思います。

 

まず「コスプレ」という言葉について。前章でアイデンティティのコスプレについて以下のように述べています。

基本的には与えられた固定のものを「受け入れる」しかなかった物理現実時代のそれとは違い、メタバース時代のアイデンティティは自由に「デザインする」ものになり、「なりたい自分」として人生を送ることが可能になるのです。(p153)

これはアイデンティティについてですから、コミュニケーションに置き換えると、本章では以下のように展開されることが予想できます。

  • 受容せざるを得なかったコミュニケーションを覆すことが可能
  • コミュニケーションに自由さがある
  • 望むコミュニケーションを実施することが可能

 

この思考から、ある程度コミュニケーションに不自由さを感じていた、もしくは現在のコミュニケーションに不自由さがあるという感覚をもっていることがわかります。私もそういったものに苦手や嫌悪感を抱いており、とても同意します。

 

実際、本章では以下のように述べています。

メタバースにおいて関係性や行動が大きく変化するのであれば、介在するフィルターを恣意的にデザインすることによって、人と人のつながりや行動、ひいてはそれらの集合体である社会を大きく変化させることができるでしょう。あるいは、物理世界において介在していた、年齢、性別、肩書などのさまざまな「フィルター」を排除して、魂と魂による本質的なコミュニケーションを加速させ、より理想的な社会が実現できる可能性があるのではないでしょうか。(p201)

これを「コミュニケーションのコスプレ」と呼んでいるそうです。

まとめると以下の主張になるのではないでしょうか。

  • 現実社会・物理的な世界においては「フィルター」をとおしたコミュニケーションが不自由さをもっている
  • 「フィルター」をとおしたコミュニケーションは本質的ではない
  • メタバースにおいては、「フィルター」は自由にデザインすることができる
  • メタバースにおいては、「フィルター」を取り除くことができる
  • 「フィルター」を取り除いたコミュニケーションは本質的、理想的である

 

フィルター、本書の別の言葉を借りると非言語コミュニケーションについてこの後記述しています。具体的には、距離感、スキンシップ、恋愛、セックスといった例を紹介しています。

 

距離感の項目ではVR飲み会を例に挙げています。
乾杯をしたり、会話の輪ができていたり、3D技術によって作られた空間性によって相手との心理的距離感が空間的距離間として可視化され、お互いの距離が縮まると述べています。

zoom飲みが流行しなかったことや、実際に距離感が縮まったというデータ、女性アバターが「距離感を縮めるフィルター」であるといった考えを用いて支持しています。

 

スキンシップは距離感と相関があると紹介されています。
不快に感じる文化圏があると紹介する一方、こういったスキンシップを「心の触れ合い」と表現しています。

 

恋愛については、その性質は物理現実とは大きく異なっている部分も見受けられるといいます。
恋愛感情について物理性別は重要でないといった支持が多いデータや性格が決め手といったデータから、視覚的フィルターにとらわれずに内面と向き合えることが理想であると述べています。

恋愛やセックスといった性行動が最も根源的なコミュニケーションのプロトコルであるとしています。くわえて、コミュニケーションの「コスプレ」ができるのならば、自由にデザインをすることが可能なのであれば、プロトコルを書き換えることができるのではないか、そう締めくくっています。

 

まとめると、
メタバースでは現実世界の属性などを削ることで、それゆえに不自由なフィルターを通して行っていたコミュニケーションから脱することができるという主張でしょうか。
距離感やスキンシップといったフィルター(≒非言語コミュニケーション)、恋愛やセックスといった作法(≒プロトコル)が自由であるなら、それ自身も現実世界の常識を超えた、個と個のつながり合い、本当のコミュニケーションがとれる、というこでしょうか。

 

 

私はこの主張に同意できません。

 

まず、「本当のコミュニケーションというものがある」という思想がプラトン主義のようで似合いません。また、「メタバースでのコミュニケーションは自由である」といった主張が経験と合っていません。

 

私の知るメタバースでのコミュニケーションはもっとドロドロとしたものです。

 

恋愛やセックスといった、衝動的なもの、自分の中から湧き出るようなもの。そういったものを他者と共有しあう儀礼を根源的なプロトコルと呼ぶのであれば、それはそうなのかもしれません。

ただし、そういった内なるものをフィルターを介さずに、あるいはフィルターを自由に設定し行っていると主張するのであれば、それには反対します。

 

私が過去にあげたエントリやSNSでの言動からもわかるかもしれませんが、私はメタバースでのコミュニケーションに不自由さを感じています。

これは、本書の言葉を借りるのならばフィルターが不自由に設定されているということです。

 

例えば本書で例にあがっていたVR飲み会ですが

  • 乾杯の強要
  • 下ネタ
  • 少人数で輪になる

といった、現実と同様の光景が見受けられます。「いやだったらミュートすればいい」という自己責任主義的なノリを感じ、むしろこういったものが過度になっているとも感じられます。

乾杯のノリは権力ですし、下ネタはホモソーシャル同調圧力です。


距離感が自由にとれるからこそ、可視化されるからこそ、対人関係に摩擦を生まないため「ちょうどよい距離感」で話つづけるのです。これも同調圧力ですね。望んで距離感を縮めにいっているわけではないので、空間での距離感≠心理的距離感だと思います。

むしろ、「仲の良さ」は距離空間ではなく、インスタンスの共有や時間の共有に依存していると感じます。話し合っているときの物理的距離ではなく、休みの日に一緒に遊びに行くような招き招かれの関係、ずっとLINEしてるような時間の共有が仲の良さを示しているように思えるのです。そういった意味で、現実とさほど変わらないのだと思うのです。

むしろ、空間が限定されているからこそ、現実より大切な人とそういったことをする傾向があるように感じます。

だって、近くで話してくれる人よりは、インバイトをくれる人の方が「仲の良さ」を感じませんか?

 

本書は、現実世界の属性を排除したコミュニケーション(本当のコミュニケーション)の理想を描いています。ですが、私の感じるバーチャルは現実世界の属性を強化させたコミュニケーションなのです。

現実とはまったくことなる何処か何かという仮想ではなく、現実の特徴をデフォルメし誇張し、まるで二次元のキャラクターとしてふるまう2.5次元なのです。

 

とくに、現実で空気を読まざるを得なく男性性を表現できなかった弱者男性が、目の上のたん瘤がいなくなったからと、その男性性を存分に発揮している場として感受しています。

 

本書で述べられている本当のコミュニケーションというのは抑圧からの反発であって、ベクトルの向きが180°かわっただけで、その軸は変化していないように思えます。

 

それ自体は悪いことではないと思いますし、私自身もしているところもあります。
ですが、これは自由ではないなと実感しながら楽しんでいるのです。

 

そうではなく、異なる軸への変化こそが自由に近いのではないのでしょうか。

そのためには、本書で言われているプロトコルは変化させずともよいと私は思います。
むしろ、より多くの他者と既存のプロトコルをとおしたコミュニケーションをしたり、得られるものへの感じ方が変わったり、そういったことがあるといいのかなと思います。

 

そうはいっても、現在のメタバースを書き表し1冊にまとめた業績には頭が上がりません。
私のブログの方が理想を語っているのです。

 

実際に面白い本なのでみなさん一緒に読んで感想を言い合いませんか?